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かぶったネコをいつ脱ぐのか

noteは、ハリーポッターでいえばダンブルドアの「憂いの篩」、記憶をすくいだしてためていくもの、として始めた。変化しつづける自分の記録、退化も進化も変化。内側から見る外側の風景を書きとめ、忘れてしまっても読み返したときにすぐ思い出せる備忘録。

妙にもやもやしたり、かなしかったり、いらいらしたり。感情先取り派の私は、なにか感じていても、今現時点で自分がどういう考えなのかを説明するのが下手で、とにかく下手で伝えきれず、誤解されたり、うまく言いくるめられてしまったりと、数えきれないほど悔しい思いをしてきた。noteは、言葉で表せない気持ちを言語化する練習の場でもあり、言えなかった言葉たちの供養と昇華の場でもあるかもしれない。

文章に起こして整理する事は、思っていることをその場で伝える練習とは異なるけれど、ことあるごとに感情の嵐が吹き荒れてはとっ散らかる内面を、つど整理して客観視する練習としては今のところすごく有効だと思っている。

だから、まったく読み手を意識した文章ではないにも関わらず、読んでくださる方がいらっしゃるのは不思議なことで、とはいいつつ嬉しいです。素人なのに、ものすごく。

最近、とても気になっていることがある。
私の書く言葉には温度がない。あるんだけどない。
本体は焦げそうなほど熱くて感受性豊かだというのに、文章にはそれがまるで反映されていない。写生のようにうつしとるつもりで書いていたのですべてト書き的でそっけない。今まではそれでよかったけど、きっと書けるようになりたい、表したいのはそれだけではなくなってきているのかなと思う。

続けるうちに味をしめ、やはり「いいね」的なものをほしがるようになり、すけべ根性のにじみ出たカッコつけ文章になってきた気がする。クールぶりたい気分もあるけど、いつもそればっかりじゃないだろう。

もうちょっと熱がこもっててもいいんじゃないか。
多少くずれててもいいんじゃないか。
お前はからだだけでなく文章もかたいのか。
だいいち写生って平面じゃないか。
もっと立体的で五感が蘇るくらいの、生々しいものを書けるようになりたいんじゃないか。

そういうことを、池松さんのnoteは考えさせてくれたわけです。

もし今、noteを読んでくださっている方にお会いする機会があれば(おこがましいのも図々しいのも何気取りだよというのも承知の上で)、だいぶ雰囲気が違うだろうなと思う。よそゆき風情でもったいぶって、なりたいものは伝わるけど足りてない姿、つぎはぎだらけのイメージを守るため、勝手に苦しがってドツボにはまってゆく自分の姿がみえるよう。

玉石混合のなかでも、やっぱり光る石になりたい。だとすれば、私本体と私の書く文体もかぎりなく一致した上でどっちも光りたい。いまの私、確実にネコをかぶっているのに等しい。だれかんちのネコを返上して、ぼさぼさ頭でいいからまるごとの自分で、そろそろ表に出たらいいんじゃないか。それが何かになるのかならないかじゃなくて、それを見てみたいから続けたい、そういうnoteもいいんじゃないかなと、思い始めています。それをおもしろく読んでくれるひとが出てきたら、いいな。



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