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私が広東語を話すとき

オフィスでのパートナーは幸いにも日本語が話せる港女さん。
私たちはいつも日本語でコミュニケーションをとるのであるが、
そこは広東語、普通話、英語、そして日本語の4つの言語を自由に操るという彼女。
仕事においても、またそれよりももっと多くの時間が割かれている
他愛のない雑談についてもまったく問題なく流暢にいなしてくれている。

・・・しかしである。私は最近あることに気づいてしまった。
私たちの弾みに弾んだ会話も、ひとたび第三者が登場してしまえば
とたんにギクシャクしてしまういうことに。

誰か日本語が話せない香港人が私たちの部屋に突然やってきたとしよう。
やってきたゲストも含めて全員が満足できるコミュニケーションを
とろうとした場合、私たちは3人が共通で話せる言語にチャンネルを
切り替えようとするはずである。
それが異文化を持つ人間が集まる空間でのマナーというものだし、
幸いにして私も英語、広東語を話せる。
(異論はあろうが、そういうことにして欲しい)

英語なり広東語なりに言語を切り替えるだけで何事もなかったように
会話が続いていく。
この街では日常茶飯事的に見られる、なんとなくの言語カバー能力で
伝わりゃいいし、実際伝わるじゃん。
そういう光景が容易に想像されるだろう。
しかし、我々にはその当たり前ができない。
もう少し詳しく言うと、港女さんがダンマリを決め込んでしまうのだ。

「あれだけお喋りな彼女が急に静まり返るなんてどういうことかしら。」
「仲良くやってるつもりだったのに、女心は本当に分からん。」
なんて、初めのころは思っていた私だったのだが、回数を重ねるごとに
段々とスッキリしない気持ちになってしまったので、
勇気を持って聞いてみたのである。

「ねぇ、何で他の人がいるときは喋んないの?」

そうしたら、彼女はちょっと話しにくそうに

「いつも日本語で喋ってるから、他の言語で話すのが恥ずかしいんです。」

なんて、しおらしいことを言うのである。
確かに彼女は港女の典型ともいうべく、ワガママでGoing my wayな
ところがある一方で実はとてもシャイなところも併せ持つ、
いわゆるツンデレさんなのではあるけれど
それにしてもこのアジア随一の国際都市(これも異論あるだろうけど)の
商業区にあって、さすがにそんな言い訳はないんじゃないかと思う。
もし、たったそれだけの理由だと言うならば、彼女のこの街で働くための
資質に問題があるのではなかろうか。

「HKLFさんの英語(もしくは広東語)のレベルが低いから、
話すのがダルいんですよ。」
もしかしたら、彼女はそう言いたかったかもしれないけれど、
私は勝手にそう考えないことにして、彼女のダンマリの真相を
もう少しだけこっそりと追ってみることにした。

そして、その答えは数ヶ月後、彼女の試用期間も終わったころ、
意外にも彼女自身の口から出る。
私という人間にも少し慣れてきた頃合いだったのかもしれない。

「あのですね、実は私、広東語で話すと粗口とかすごいんですよ。
だから、今更HKLFさんの前で広東語を話したくないの。イメージ崩れちゃうし。」

ちょ・・・粗口!?
私の目の前でいつも健気に仕事をこなす彼女は、多少気が強いところは
あるものの、受け答え自体はどちらかと言えば柔らかい方で、
時々ほころびが出てしまう日本語は逆に愛嬌が感じられるし、
とても優しい話し方をする子だったから、まさに寝耳に水だった。

それは例えば、家柄も由緒正しく、箱入り娘として育てられたのだろうね、なんて私が勝手に想像していた大和撫子が
「昔ですね、族やってましてね。で、ですね。隣町の◯◯ってやつを」
なんて真顔で話し出したようなもので、
「また間違った人を採用してしまったのか・・・。」
という悔恨の念で私の頭はいっぱいになっていた。

しかし、半分白目になりながら、私は問う。

「でもさ、広東語を上品に話す人なんて、そうそういないヨ?」

ショック状態の私にしては出来過ぎた言葉だったんじゃないかと思う。
何せ、今まで広東語を聞いてきて、
「あぁ、上品。この人はきっと育ちが良いんだろうなぁ。」
なんて思った試しがないのである。
きっと・・・、広東語という言葉自体がそういう運命を背負って生まれてしまったんじゃなかろうか。

言葉が人(文化)を作るのか。人(文化)が言葉を作るのか。
どっちが先なのか、そんなことは知らないが、
ある特定の言葉を話そうとするとき、発音だとか音程のような
小手先のものだけを真似るだけでそれをマスターしたような
気になっていてはまだまだ甘いというものである。
言語独特の語気、態度、表情というものまで含めて極めてこそ、上級者。

たとえば、英語を話すと途端に
「雄弁に、アグレッシブに、自信満々に話す」
なんて人もよく見られるけれど、それもひとつの英語という言語が
持つ特性なのだろう。

それが広東語の場合は残念ながら「私が勝手に抱く港女さんのイメージに沿うようなものではなかった」である。
私の勝手な妄想に彼女は困ってしまったのである。
そういう意味においては、彼女はやはり言語のプロである。
日本語を話す時は日本人らしく話し、広東語を話す時は香港人に戻るのだ。

おっけー、もう何も問わない。
だから、私は彼女との会話の最後をこう締めくくる。

「じゃあ、俺たち、これからも日本語で行こうか・・・。」

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