かつての熱量に浮かされて、わたしは

最近よく過去を振り返る。

何かを記憶することが得意でないのであまり詳しく覚えてはいないのだけど、ぼやっとした感覚を振り返っては「ああ、あの頃は楽しかったな」なんて思う。

特に大学に入る前、中学や高校の時にあった、あの不思議な熱量を。

仲の良かったグループでふざけたり、真剣に何かを作ったり、議論したり。

自分たちの無力さをわずかに気付いていながら、不思議な全能感のあったあの頃。

私は、その熱量の中にいるのが好きだった。とても。


海外の大学に行ったので、日本に残った彼らとは疎遠になっていった。
帰国して会うことはあるけれど、もう中高のような密な付き合いではない。
彼らには大学や社会で彼らの世界がある。当然だ。

少しさみしいな、と思いながらも、私も同じように別の世界を作っていった。


高校を卒業してからかかわり始めたある団体。
その団体にいる人々への憧れから所属し、気付けばもうその団体にいるのは6年目になる。

その団体の学生メンバーの中では、最年長。
もうすぐ学生も終わるので、数少ない社会人メンバーのひとりになってしまう。

こんなにも長く在籍していると、よく「どうしてそんなに続けてるの」と聞かれる。

答えは単純で、その団体が好きで、そこにいる人も好きだから。
もちろん(たまに批判することや疑問に思うことはあるけど)理念にも共感するし、自分は団体の活動で少なからずを価値を出せるのではという思いもある。

そんなこんなで6年目。長くやってきた。

その団体が好きだ。だから長く続けられているのだろう。


好きだ。ちゃんと。これはきっと本当。


だけど、たまに、その中にいることが苦しくなる。

6年も続けていると愛着が湧くもので、わたしはその団体を大切にしたいなあと心から思っているし、大切にしてもらえたらとてもとても嬉しい。

だけど、みんながみんな、その団体を同じように大事に思っているわけじゃない。

たとえどれほど長く所属していようと、その大切度合いは人によって違う。
それは至極当然で、みんなにはみんなの世界がある。
所属している組織は1つじゃないし、所属している理由も、団体への愛着も違うだろう。優先度が違うのなんて、当たり前だ。

それに、贔屓目抜きにわたしの所属している団体はいわゆる「優秀な人」がとても多い。
彼らの世界はとても広い。世界での彼らの需要は飽和状態だろうし、彼らが居心地よくいられる居場所はきっともっとたくさんある。

だから仕方ないのだ。わかっている。

だけど、その熱量の違いを直に感じるたび、ちょっと苦しい。

100注いでも10しか返ってこないことが、頭では理解していても、やっぱり悲しくて、自分だけが空回りしているような気がして。

ひとりで張り切りすぎなのかな、年上がうざいかなって、自己嫌悪してしまって。

もうやめたいな、って思うことが結構、ある。


昔の話ばかりしていても仕方ないのはわかっている。

だけど、あの頃は私たち、狭い世界で、そこだけに全力だった。

100を注げば150が返ってくる世界がそこにあった。くだらないことにも全力だった。


誰にも求められていないのに、少しでもタイムを縮めようと居残りして毎日狂ったようにみんなでリレーのバトンの練習をした。

賞にもならない舞台の脚本を、全身全霊で書いて演出し、全員が全力でコメディもシリアスも演じた。

「世界なんてくだらない」ってやさぐれていたけど、それでもその想いに真剣で、飽きるほど議論した。


全力だった。


それはきっと、ちゃんと返ってきたから。100が、150が返ってきたからわたしは100でぶつかっていけた。200で返したいと思えた。

だけど、今は。

今は、どれくらい返ってくるかわからないから、80にしておこうかな、50くらいがいいかな、っていつも余裕なわたしを演じてしまう。やりすぎない方がいいのかな、って、遠慮してしまう。

ひとりで100を繰り返すだけのメンタルはわたしにはなかったし、きっとその50が正しいんだろう。

みんな広い世界で、それなりに大人になってるんだ。きっと。

広い世界をちゃんと見つめたら、ひとつだけに100を注ぐのはきっと無理なんだろうな。いろんな世界を持って、100を分配していくことが、大人になるってことなんだ。

わたしだけがひとり、まだあの熱量に浮かされている。

わたしも別の世界を持たなきゃいけない。

一方通行の情熱はしんどい。心がダメになっちゃう前に、大人にならなきゃ。


だけど、どこかでわたし、あの100を注いで150が返ってくる場所をまだ探してるんだろうなあ。




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