見出し画像

自我と無意識

フロイトにおいては、人間の自我(意識)は、「快楽原則」と「現実原則」の調停役となる。

フロイト説の中心的意味は、子どもは幼少期にある時点で、例外なく、母親に対する初期的な愛着の世界から引き離され、共同ー社会的規律に世界に踏み入ることを余儀なくされる、ということにほかならない。

子が幼児期に体験する「分離」において、父親の威力が一定の役割を果たすことは疑いえない。しかしそれが「去勢」の威嚇による性的禁止であるかについては、近代に心理学の歴史はほとんど否定的な証拠しか示していない。

竹田青嗣. 欲望論 第2巻「価値」の原理論 (p.37). 講談社. Kindle 版.

世の通説となっている、エディプス・コンプレックスの確たる証拠は見出せていない、と竹田青嗣氏は言う。

フロイトによれば、人間の自我は、動物の「意識」が生理的身体の欲求のままに行動することと同様に、関係の中で発生的に形成された無意識から生じる諸々の要求にそのまま応じると見なしている。

これに対してヘーゲルでは、人間の意識は「自己意識」であり、動物のように生理的欲求からくる要求に優先して発現するとみなされる。

フロイトでは、人間は、関係的規範を性的な身体性へと体制化(身体化)する主体、つまり関係的諸欲求をたえず無意識へと内面化する主体ならざる主体であるが、ヘーゲルでは、むしろ「自我」は対他関係にうちでたえず自己価値を問題とし、それを欲望するところの「自己意識」となる。

竹田青嗣. 欲望論 第2巻「価値」の原理論 (p.38). 講談社. Kindle 版.

フロイトの偉大な業績は、「無意識」の概念によって、人間の身体性が関係的意識の身体的体制を示したことにある、と竹田は言う。

ところがこの重要な発見は、現代思想においては、極めて多くの場合、ヘーゲルによる人間的な「自己意識」の発見の意義を覆い隠し、これと対抗的かつ背立的な観念として、すなわち「無意識」こそ人間の主体であるといった観念に強く結びつけられる点にある、と述べる。

ヘーゲルの著作『精神現象学』では、人間の「意識」が、子ども時代から、少年、青年、成人、老人と年齢を重ねる度に、「意識」「自己意識」「理性」「良心」「絶対知」へと成長していく様を描いている。

しかしながら、フロイトの「無意識」の概念が強すぎて、ヘーゲルが描いたような、精神が段階的に成長しているということが隠蔽されてきたのは事実ではある。

わがままな「自我」は「無意識」によって制御されているという説が広がりすぎたということだろう。

参考図書:竹田青嗣著『欲望論』 第2巻「価値」の原理論

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?