「自我」、「無我」、「気づき」について
仏教的概念である「無我」について、哲学者永井均氏が著書『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』で述べられているので、下記に引用します。
この引用文は、永井氏が無我説を特に、批判しているわけではない。以下には、無我説の無意味さを指摘しつつ、擁護していく過程を記述します。
無我説は、さまざまに説かれている。永井氏にとっては、意味をなさないと思っている主張の趣旨を紹介しています。どう意味をなさないのかを指摘していますが、それについては省きます。
死後も永続する永遠不滅の「自我」というような実体は存在しない。
「私」とか「自分」といったものは、そもそも錯覚あるいは幻想であって、じつは心を構成しているさまざまな要素が生滅(生じたり滅したり)を繰り返しているにすぎない。
「自分」はじつは五蘊(色受想行識)からできており、五蘊はどれもつねに変化している(無常である)から、永遠不滅の確固たる自分はない。
もし「私」が存在するなら、「ここにある」と捉えることができるはずだ。しかし実際には、体のなかや心のなかをくまなく探しても、どこにも「私」は見つからない。
自分が自分を思うときはいつも自分がいるが、自分のことを思わないときには自分がいないのに、人々はその間にも「私」が存在すると思い込んでしまっている。
以上四つに共通していることとして、自らの信じる教説への執着が強すぎて、検討可能な開かれた形で述べられていない、と永井氏は指摘している。
次の三つのことを分けて論じてもらいたいというのである。①仏陀はどう言ったか(その後の仏教ではどう考えられたか)、②それは妥当な根拠に基づいた正当な主張であると(なぜ)いえるのか、③自分自身は何を(いかなる根拠で)信じているか。
この著述モデルに適合していると、永井氏が認めているのは、魚川裕司氏の諸著作であると言う。
魚川氏の無我説の説明は、「仏陀の教えは、じつは自分をコントロールすることなどできないから無我なのだ」というものである。
仏陀の教説は、古代インドにおけるバラモン教のそれとの対立関係から生じたものであり、現在の日本でそのまま主張しても、さほど意味がない可能性がある、と述べる。
無我説を擁護する点を、下記に記します。
この世界には、数えきれないほどの五蘊が存在していはずだが、そのうち実際に感じられるのは1組だけである。
そして実際に感じられるその1組が、すなわち私である。他の五蘊は、私ではなく他人である。
ということはつまり、私は五蘊の集まりにすぎないにもかかわらず、私とは五蘊の集まりのことではない、ということである。
分かりににくいが、犬は動物であるが犬とは動物のことではないと同じことである。理由は単に、犬ではない動物が存在するからである。
次に「そして実際に感じられるその1組が、すなわち私である。」部分の「実際」の意味を明らかにする。
これは私であるその人間が持つ(他の人間が持たない)一つの属性で、それがあることによって私はその人を私であると(私ではない人たちから)識別できているであろうか、そうではないのだ。
私は私が持つ属性によって(私ではない人たちから)識別することはできない。
次に「気づき」(マインドフルネス)のことを述べます。現在、巷では、マインドフルネスが行なわれていると聞きます。これは、明白に反省的自己意識の働きである。ところが、無我を説く仏教が「気づき」を重視しているのである。何となくではあるが、矛盾しているように感じる。これについいては、永井氏は下記のように述べている。
永井氏は、なぜかこの私という説明不可能な、例外的な存在者が現に存在してしまっている、という端的な驚きである。次に、このこの不思議さを構造上(私ではない)他人と共有できてしまう、という二次的な不思議さである。さらに、本質的に同じ問題が私の存在以外にもあてはまるという再度の驚きである、と諸著作で主張している。
この主張が、おぼろげながらであるが、無我説の解説で、理解に近づいたような気がしている。魚川氏の無我説を評価している点にも共感できた。
魚川氏は、東京大学の学部生では、西洋哲学を学び、大学院生では、インド哲学を専攻していた。ミャンマーではテーラワーダを中心とした仏教の行学(実践と学問)を学んでいる。だが、仏教学者とは名乗っていないという、稀有な人物である。そこに、魅力を感じている。
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