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カール・マルクス 著『資本論 』(14)  読書メモ

第一遍 商品と貨幣
 第三章 貨幣または商品流通
  第二節 流通手段
   c 鋳貨 価値標章
貨幣 の 流通手段としての機能から、その鋳貨態容が生まれる。商品の価格または貨幣名に観念化されている重量部分である金は、流通において、同名目の金片、あるいは鋳貨として商品に相対しなければならぬ。

価格の尺度の確定と同じく、鋳造は国家の仕事となっている。金と銀が鋳貨として身につけたり、世界市場でまた脱ぐことになったりする各種の国民的制限に、商品流通の国内的または国民的部面と、その一般的世界市場部面との間の分離があらわれる。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 1 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3854). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

金 は 流通手段 として は、価格の尺度標準としての金から、偏差をもつようになる、そしてこのために、その価格を実現する商品の実際の等価ではなくなる。

18世紀にいたる中性や近世の鋳貨史は、この混乱の歴史である。本来金である鋳貨を金の仮象に、または鋳貨をその公称金含有量の象徴に転化しようとする流通過程の自然発生的傾向は、金属摩損の程度にかんする、最も近代的な法律によって承認さえされている。

この程度如何によって、金片が流通不能なものとされたり、貨幣の性質を剥奪されたりする。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 1 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3863). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

銀 徴 標 または 銅 徴 標の金属含有量は、随意に法律によって定められる。通用している間にそれらのものは金貨よりもっと急速に摩滅する。

したがって、その鋳貨機能は事実上は全く、その重量から、すなわち、すべての価値から独立したものになる。

金の鋳貨実在は、全くその価値実体から分離される。こうして、相対的に価値のない物、紙幣が、金のかわりに鋳貨として、機能しうるのである。

金属的な貨幣徴標では、純粋に象徴的な性格がなお多少とも、かくされている。紙幣では、それはあらわに出てくる。

だから、難しいのは、第一歩をふみ出すことだけであることがわかる。

ここで問題となるのは、ただ強制通用力をもっている国家紙幣だけである。それは、直接に金属流通から生長してくる。

これに反して、信用紙幣は、われわれにとって単純な商品流通の立場からは、まだ全然わかっていないはずの諸関係を前提とする。

だが、ついでながら述べておけば、本来の紙幣が、貨幣の流通手段としての機能から生ずるように、信用貨幣は、貨幣の支払手段としての機能に、その自然発生的の根源をもっているのである。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 1 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3906). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

一 ポンド、 五 ポンド等々というように、貨幣名が捺されている紙券は、外部から、国家によって流通過程に投ぜられる。

それが実際に同一名目の金総額のかわりに流通するかぎり、その運動には、ただ貨幣流通自身の諸法則が反映される。

紙幣流通の特殊法則は、ただその金にたいする代表関係からしか出てこない。そしてこの法則は、単純にこうである、

すなわち、紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表示されている金(ばあいによっては銀)が、現実に流通しなければならぬ量に限定さるべきであるというのである。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 1 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3938). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

紙幣は金標章または貨幣標章である。その商品価値にたいする関係は、ただ次のことにある。

すなわち、商品価値は、紙幣によって象徴的に感覚的に表示されていると同じ金の一定量に、観念的に、表現されているのである。

ただ紙幣は、他の一切の商品の一定量と同じようにまた価値の一定量でもある金の一定量を代表するかぎりにおいて、価値標章である。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 1 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3961). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

【私見:人類は、物々交換から始まり、貝殻、貴金属(金、銀)、紙幣などを媒介とした、取引を営んできた。現在では、キャシュカード、クレジットカード、電子マネーなどで支払うために、財布を持参しなくてもよいという、一見便利な社会となったように思える。

ところが、2023/03/17に投稿した記事で示したように、ある著名人が、三菱UFJネットバンキングアプリから、急ぎの送金しようとしたが、アプリがロックされるというトラブルが発生する危険性をはらんでいる。

最近、シリコンバレー銀行の破綻やクレディスイス銀行で取付け騒ぎがあり、銀行界は不穏な空気が流れており、この著名人は、預金封鎖かなどと、いささか妄想気味なとも思われる発言をしているが、妄想とは言えないのではという気がしている。

なぜならば、長年、低金利が続いていたが、昨年末から、利上げに転じており、上記にあげた銀行は、一気に債務超過に陥っており、いずれ日本の銀行にも影響しないとは言い切れないだろうと思われるからである。

マルクスの時代は、金銀を流通貨幣とした場合、金銀の摩滅していくので、金銀の含有量は減少する。したがって、貨幣名も変わっていた。ましてや、流通貨幣として、紙幣とするためには、かなり慎重に行っていたことは伝ってくる。

ところが、現在では、金本位制すら廃止して、金の所有量に関係なく、紙幣を無限に刷っている。その上、まるでゲーム感覚のようにして、ディーラーたちは、株取引で、マウスのドラッグアンドドロップのスピードだけで、莫大な貨幣を得るという金融システムとなってしまった。

さらには、コンピューターを利用してアルゴリズム自動計算による株取きとなると、ただ単に、コンピューターの性能競争という世界となっている。

これでは、金融界だけの株取引であり、実体経済は、まったく反映されていない。こうした金融システムはマトモなシステムなのだろうか?

リーマンショックですでに、こうした金融システムは破綻しており、そして、今回も銀行の破綻が起きているのだから、マトモなシステムではないと考えるのが普通なのでは?】


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