ブッダの「無記」について
哲学者苫野一徳氏がブッダの「無記」についてVoicyで語っていた。
清水俊史著『ブッダという男』という本を読んだことで、新たな学びがあったと言うのです。
通説では、「無記」とは、形而上学的な問いに対してはブッダは答えないというものです。
この通説に清水氏は異論を唱えた。
ブッダは、全てのことを知っていることになっているので、不可知論者であるわけがないというのです。
たとえば、仏教徒以外の異教徒の人たちが、「私は生まれかわるのか?」という問いに対しては答えないということである。
仏教では、私という実体はなくて、無我であるから、それに答えると混乱させるから、無記つまり、沈黙するというのである。
このことについては、『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』の著者の魚川裕司氏も同様のことを記述していた。
ここまでは、一致する。しかし、同じく仏教の基本概念である輪廻の解釈には違いがあった。
清水説では、私という実体が輪廻するのはではない。実体は五蘊と称する、色、受、想、行、識の5つの要素に分解されているのであるが、これらが輪廻するというのである。
一方、魚川氏は、下記のように輪廻を説明している。
何が輪廻をし続けているのか??
それは仏教の立場からすれば、行為の作用とその結果、即ち業による現象の継起である。
つまり、行為による作用が結果を残し、その潜勢力が次の業(行為)を引き起こすというプロセスがひたすら継続しているというのが、仏教で言うところの「輪廻」の実態である。
輪廻という言葉を聞くと、人間が何かに生まれかわるという転生という物語のことばかりを考えてしまう。
実は輪廻というのは、そうした転生の瞬間だけに起こるものではなく、いま・この瞬間のわれわれにも現象の継起のプロセスとして、生起し続けているものである。
こうした理解は、経典の基づいて修行する実践者の見解とも符合する。
たとえば、ミャンマーの著名なテーラワーダ僧侶であり、瞑想指導者であるウ・ジョーティカは、輪廻の性質について次のように言う。
輪廻というのは、いつかどこかで自分が死ぬ時に起こる神秘現象ではなくて、いま・この瞬間に生じ続けている現実だというわけです。
だから、それを乗り越えるためには、この現実に起こっていることから逃げることなく、しっかりと見据える構えをみせなければならないということである。
現象の継起が輪廻なのである。
仏教には、さまざまな宗派があり、ブッダの教えからも逸脱した解釈があり、何が正解とはいえないのが、実情ではある。精神分析学にしても同様であり、それぞれの派閥が、その正当性を争っているのであろう。
参考図書:魚川 祐司.著『仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か』
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