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生きたいように生きるには

2023年9月19日投稿記事「躁鬱病に悩まされていた哲学者」で苫野一徳氏がヘーゲルの『精神現象学』を読んで、躁鬱病を克服したことを書きましたが、いかなることで、納得したのかを綴ってみます。

苫野氏は、下記のように説明します。

「生きたいように生きたい」という欲望は、結局「自由になりたい」というあがきからくるのである。そのあがき方をヘーゲルは『精神現象学』で克明に描いている。

自己意識の自由(他者とかかわらない自由)

  1. ストア主義:自分だけで自己意識を満たそうとし、他の人が認めてくれないので、自分の中だけで自由を得ようとする。(思春期によく見られる)

  2. スケプシス主義(懐疑主義):自分のことを認めないのは、他者が愚鈍だからであると常に、他者の批判ばかりすることで、自分の価値を相対的に高めようとする。(X(旧Twitter)のタイムラインでワンサカ流れている。)

  3. 不幸の意識:有名人を知っているとか、何か偉大なものと繋がることで自己意識を満足させようとする。この自己意識は、理想と自己の未熟さに引き裂かれて悩む。この引き裂かれの意識が「不幸の意識」である。

理性(他者と関係性の中で得る自由)

  1. 快楽と運命:恋人との関係性によって得る自由である。しかし、ここには必ず運命が待っている。子供が生まれると、世間が関わってきて、二人だけの世界に、ひたっているわけにはいかない。

  2. 心胸の法則:自分の心の法則が誰にも当てはまると考える。単なる思い込みでしかない。

  3. 徳の騎士:自分の正義をかかげて、自分だけが絶対に正しいと独善的に強弁すること。(イデオロギーに捉われている人たちは、こうした主張を述べたてることになる)

良心

ヘーゲルが言う良心とは、相互承認の精神のことである。お互いを認め合う精神のことであり、ここに人間精神の最高境地があるという。

良心の心境に到達した人間は「事そのもの」を目指すようになる。「事そのもの」とは、芸術・学問といった文化的な表現の領域と考える。音楽や文学の何らかの作品に出会って、「これぞほんものだ!」と思うようなとき、最高の自由を感じる。

この良心を次に二つに分けて対立させる。

  1. 行動する良心:正しいと思ったことをそのまま具体的に行動しようとする、いわば素朴な正しさの意識である。例えば、貧困問題を無くすことこそが、自分にとって事そのものだと考えて、他の人々にも投げかけて、この問題に取り込もうと、すぐに行動する人のことを言う。

  2. 批評する良心:行動という具体的場面に踏み込む代わりに、ひたすら正しさの普遍性を理論的に吟味しようとする良心である。たとえば、貧困問題に取り組んでいる行動する良心に対して、名誉欲からとか、目立って、皆から認められたいからではないのかなどと、冷や水を浴びせかけるようなこと。

批評する良心も、批判はするが、ちゃんと相互承認を得られることを、考えているので、行動する良心と目指すところは一致しているわけだから、それに気づき、お互いに和解して、より高い良心にたどりつくことが必要であるとヘーゲルは主張している。

以上のように、ヘーゲルが指摘している、ストア主義、スケプシス主義、心胸の法則、徳の騎士などは、ずばり、苫野氏自身の内面に突き刺さり、納得したことによって、躁鬱病を克服することができたというのである。

躁鬱病とは、精神医学では双極性障害と称する「心の病気」であり、薬の投与でなければ寛解しないケースもあると考えられうるので、苫野氏のケースを軽々に一般化することは、できないと思いますが、苫野氏自身が治った(寛解した)と明確化しているので、一つの解決法ではあるでしょう。



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