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見えている世界

定年(65歳が定年でした)前に、技術職を辞めて、妻の弟が経営していた通所介護で務めていました。身体介護をする技能もないので、事務と雑用という業務になります。

利用者の中には、介護度2程度なので、身体介護の必要はないが、認知機能がかなり低下していた高齢者のFさんがいました。

足腰はしっかりしていて、フロアー内を歩き回り、しきりに外にも出ようとするので、スタッフ一人が掛かり切りになります。

そのために、Fさんの利用日には、私が相手することにした。

Fさんを迎えに行き、椅子に座ってもらってから、わずか5分もたたないうちに、「おかーさん(奥さんのこと)のところに帰る」と言い出す。

「おかーさんは、今、市役所に出かけていて、家に帰ってもいないよ」などと、声かけすると、一旦は納得するが、また5分後には、「おかーさんのところに帰る」の繰返しとなった。そこで、強引に話しをずらして「仕事は何していたの」などと声かけして時間稼ぎをした。

こうして、なんとか入浴、昼食時まで、引き伸ばすことができれば、昼からは、機能訓練やレクレーションなどで、帰宅時間まで過ごしてもらっていた。

ここまでは、18年前に、実際に重度認知症の利用者に対して、極めて原始的な対処してきたことを記述しました。

ここからは、認知症とともによりよく生きるためのヒントとなる『旅のことば』(井庭 崇 岡田 誠 編集)を参考にして、どのように対処すれば良かったのかを、反省の意味も込めて、考えます。

会話がとぎれた後、Fさんの目は、何か遠くを見つめて熟考しているように感じた瞬間があり、中々哲学的な風貌だなと思っていたら、「おかーさん・・・・」といっぺんで現実に戻ってしまう声が聞こえた。

頭の中には、何も考えるものはなくて、空っぽな状態なので、苦しいだろうなと感じていた。

そんな状態であっても、Fさんなりには見えている世界があったのだろうか。

「おかーさん」と言いだしたときに、とにかく、家に帰さないための手だてを考えているだけで、Fさんが見えている世界に視点を向けたことはなかった。

Fさんの言葉を妄想や幻覚だと否定するばかりでは、Fさんの感覚は変わることがない。だからといって、話を合わす素ぶりをみせては、利用時間の途中で帰宅させることになってしまう。

遠くを見ている目をしているときに、何が見えるのと問いかけてみるべきだった。何もなくて空っぽだと思っているのは、私の主観であって、Fさんなりに何かを考えていたかも知れない。

心の中は不安感でいっぱいであり、そのために「おかーさん」が口に出てきたのではと見ることもできる。この言葉の前に、「何が見えているの」と声かけすれば、何らかの反応がある可能性はあった。

反応があれば、それに対して、問いかけるという具合に、Fさんに寄り添う形にすれば、Fさんの不安を癒すことになって、「おかーさん」の繰返しはなかったかも知れないのではと反省している。

日本の65歳以上の方のうち、軽度の認知症の方をも含めれば、その数は65歳以上の約4人に1人、日本人全体でみると約15人に1人は認知症だと言われている。

『旅のことば』によると、認知症であっても認知症とともによく生きている人、あるいは生きようとしている人たちがいるということです。

77歳ーーー坂本龍一さん、谷村新司さんたちは年下ですーーーの身となると、死が近くに見えていることは、勿論だが、認知症となるのは、さらに身近です。だが、認知症となったからといっても、あきらめることなく、よく生きようとする人々がいることは、心強いものです。




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