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ヘーゲル『大論理学』第二巻 本質論(5)

第一篇 自己自身における反省としての本質


第一章 仮象

C 反省

仮象は反省と同一のものである。しかし、仮象は直接的な反省としての反省である。そこで、この自己のなかに復帰したところの、したがってその直接性を離脱したところの仮象にたいして、われわれは外国語)の反省(Reflexion)ということばをつかう。

ヘーゲル全集『大論理学』中巻 P17

仮象というのは反省である。だが、その言い方は直接的である。仮象の項で言われていたのは、仮象とは現にあるものが仮象であるというそのことがまさに本質であり、そこで反省がおこなわれているということでした。

解説者見田石介氏によれば、カントの「物自体」で説く本質は彼岸にあって現象は仮象にすぎないということに対して、ヘーゲルは、現象は仮象ではなく本質であると述べているというのです。

だが、自国語の仮象を使うと、日常生活で垢まみれていて抽象度が低くなるので、外国語をつかうということです。外国語であれば、普通の人は日常的な意味を知らないために、抽象的・普遍的になるからです。

ここで余談ですが、見田石介という名前で、見田宗介氏を想像される方がおられるかと思います。古本屋で見田石介『ヘーゲル大論理学研究』というタイトルを見たときは、社会学者の宗介氏がヘーゲルの研究もしていたのかと、一瞬誤解しました。Wikipediaで調べると、二人は親子関係でした。石介氏は、マルクス研究者であるために、ヘーゲルも研究していたわけです。




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