定年退職後の生活
わずかではあるが年金だけで、会社で働く必要がなく、読書三昧で、気楽に暮らしている。
だが、何か「不満」がある。
「不満」とは、こうありたいと思っている自分と現実の自分にギャップがあるときに生じるのだ、と言われているが、正にその通りだと実感している。
大江健三郎氏は柄谷行人氏との対談で「私は、今は書くことよりも、読むことが、とても楽しい」と述べていた。
私のようなド素人は、逆に、書くことで自己主張したい気持ちの方が強い。だが、大江氏のように、ノーベル文学賞を受賞したほどの達人となると、そうした境地となるものだと、感服した。
書くことで自己主張したいというより、内面のモヤモヤしたものを、どうにかして表出したいという方が的確かも知れない。
確かに、読むことで、癒されるのは可能ではあるが、偶然性が高すぎる。だから、書いてみたくなる。
読書していて、たまたまヒットした箇所があったので、引用する。
日頃から、センチメンタルやロマンな文章を読むのを苦手としていたので、この引用文を読んで、なるほどと思った。
さらに、文学は、独自の方法と規則をもっているので、文学に近づくには、それなりの才能がいるとつけ加えている。
小学生のころ、成績は中位ぐらいの同級生が、作文では毎回トップ賞を得ていた。そのころでも、これは才能なんだろうと気づいていた。
ある種の才能のある人にとっては文学は大きな意味をもつが、そうではない場合は、諦めて、他の分野を探した方が良い、と身も蓋もないことを竹田は述べている。
文学というものは、読んでいると、心に染みいって、慰められるものがある。放浪生活のときは、まさにそうだった。むさぼるようにして読んだが、いざ書こうとしても、中々書けるるものではない。
それは、若い頃のモラトリアム時代や年金生活で時間がタップリあったとしても、そうだ。
はじめて小説を書く少女の場合でも、才能があれば、苦もなく書いてしまう。
実務をこなすことで、目いっぱいだったころは、読書する時間もなかったし、ましてや書くことなど、せいぜい日記を書くぐらいで、お茶をにごしていた。
定年退職したら、書くぞ、と張り切ってみたものの、読書を媒介にして、考えついたことをメモするぐらいがせいぜいだ。
つまり、なりたい自分になれないという現実を思いしったがゆえの「不満」だ、と言うことになる。
ここで、話題を変えます。
哲学者の國分功一郎氏は、『暇と退屈の倫理学』で暇と退屈を下記のように区分けしている。
暇があり、かつ退屈している。
定年退職者のばあい、パチンコ、競輪、競馬、飲んだくれる、カラオケ喫茶通いなどで、遊びで退屈しのぎしている状態。
私も、退職してすぐの頃は、頻繁にカラオケ喫茶(含む飲んだくれ)で退屈しのぎをしていた。暇なのに退屈していない。
1とは違って、定年退職者が、文学、哲学、音楽、絵画などの文化的なもので時間を過ごして、退屈さを感じていない状態。暇がない、かつ退屈している。
仕事はしているが、いわゆるブルシット・ジョブ的なものであり、上司のために説明資料作るとか、無駄な会議に出るとかの、クソどうでもよい仕事をさせられる状態。暇がない、かつ退屈していない。
プログラマー、繁盛している店の従業員、自動車などのメーカーの労働者であり、この階層こそ暇を与える必要がある。
この区分けからすると、私は、1から2に移行したので、これだけで、満足すべきかも知れない。しかしながら、人間の欲求、欲望には、上限がないのが問題ということでしょう。
参考図書:
竹田青嗣著『哲学ってなんだ』
國分功一郎氏著『暇と退屈の倫理学』
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