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会話のシャッター

服も化粧も買い物も食事も、興味がない。
会話の取っ掛かりとして、「何が好きなの」と訊かれても、
勉強と睡眠
しか出てこない。
たまに洋ドラや洋画を見るくらい、あとは日本のドラマも好き。
でも、どのシーンの誰が、とか、どのセリフが、とか、
一番多い、俳優さんや女優さんが、っていう話は全然分からない。
顔判別するの苦手だし。
映像作品は、ストーリーの構成と伏線の表現技法、カメラワークや光の使い方に注目してしまう。
登場人物とセリフの話ができるのは、大好きなドクターXシリーズくらいだ。

最初の会話で
「趣味は勉強」
「休みの日は寝てるか勉強している」
「好きなことは勉強」
なんて答えれば、その後会話に参加させてもらえなくなるのが日本人の輪。
偏見かもしれないけれど、経験則。
大体、「すごいねー」で終わり。
「話が合わなそうだからおしまい」っていう世界。

何の勉強?とか、どういう生活してるの?とか、ちょっと掘ってくるのは、なんとなくだけれど、男性的思考が強めの人かな。
あとは外国の人。
これまた偏見だけれど、外国の人って、勉強内容とか専門的な話とか、もちろん政治の話なんかを、きちんと掘ってくれる。
「あなたの考えは?」っていう世界。

異なるものに寛容とかそういうことではなくて、「違いが前提」にあるかどうか。
●“同じor違う”の判断基準しか持ち合わせていないか。
●違うのが当たり前。その上で、その違いに興味があるか。

もちろん、「話が合わなそうだからおしまい」って雰囲気を出しながらも、話を深堀してくれる人はいる。
自称「異なるものに寛容」な人。
それか、大人な人。社交辞令だ。
でも何となく、興味ねーんだろーな、って話してる側も感じてしまう。
それって、会話を終わらせるより失礼なんじゃないかと思う。
だから私は社交辞令ってすごく失礼な文化だなって勝手に解釈している。
そういうのもアリだよね!って違いを肯定する人は、無理している気がする。
「そういうのもアリだよね!(私は絶対そんな人間ではないけど)」
って感じ。

文化や人種、性別、いろんなものにおいて、「違い」への理解を要求される世の中だけれど、「違いへの理解」と言っている時点で、違いを受け入れてないのかもな、なんて感じる。
「違いは当たり前」すぎて、話題にも上がらなくなったら、きっと生きやすくなる人がたくさんいる。

「自分と同じか、違うか」
という判断基準を
「自分とどう違うか」
に変えることができたら、ちょっと世界は楽しくなる。

曖昧で感覚的で、偏見たっぷりだけれど、私にとって、「違うものを理解しよう」みたいな運動は、それ自体が差別的に感じてしまうんだ。
「確かに違うけど、でもその違いを排斥しちゃだめだよ、尊重しなきゃ」
みたいな。
あくまで、自分の方が上の立場な感じ。

起きて20分で打ち込んだ文章だから、全然まとまっていない。
でもこれが、「話が合わなそうだからおしまい」ってシャッター降ろされちゃう私の、ちょっとした哀しみだ。

私の価値観に、価値を見出してくださりありがとうございます。