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勉強し続けること

休学理由の一つに、「研究職は向いていないのかも??」という迷いが存在した。
これは、迷いというよりも恐怖に近いと、今の私は考える。

私は、既に社会からズレた感覚で生きている。
だから、社会のニーズが理解できないわけだ。
その自覚がきちんとあった。
そして、それが社会に出るうえで致命的であることも、なんとなく悟っていた。

社会のニーズを過大視して、そこに追いつけないという恐怖ではない。
社会のニーズが小さすぎて、遥か離れた場所へ突き進んでいく恐怖である。
私は、社会というものからズレ続け、離脱することを、恐れている。
社会的動物としての本能である。

趣味は勉強。
そう言うと、まず大抵の人から一線引かれる。
学問の話をすれば、さらにチガウ人として見られる。
知識が増えれば、私の中の常識が、考え方が、どんどん変化する。

昔は「顔を覚えるのが苦手なんだよね」だったのに、今は「軽度の相貌失認で、顔のパーツを再認できても顔全体を再生することはできない」となる。
私にとっては、「顔を覚えるのが苦手」は、そこで終わらない。
「なんでだろう?」につながって、その理由を理論的に示したいのである。
「苦手で済ませばいいのに、ウンチクうざい」と思われるタイプだ。
こうやって、どんどん世間の感覚から乖離して、私の常識は宙に浮く。
アカデミアの住人とは話が合うのかもしれないけれど、一般社会では「チガウモノ」として扱われることになり、私自身もそんな自分を恥じるのである。

学者に変人が多いというのは、きっとそういうことで、私は学者の世界に片足を突っ込みかけているのかもしれない。
もちろん学者の中には、世間の感覚に合わせた情報提供が上手で、著書が売れたりメディアで話題になったりと、きちんと一般社会と繋がっている人もいる。
そういう人を、世の中は頭が良いと判断するし、私もそうなれたらいいのになと思う。
世間のニーズに合わせるとエセ学問ぽくなるのは否めないのだけれど。

集中力がある私は、学問の道をひたすら進むことはきっとできる。
その自信はある。
ただし、同時にマルチタスクが苦手という面が問題になる。
何をやるにも、一直線だ。よそ見はしない。
学問を追究すれば、社会を顧みることはなくなるだろう。
そして、社会から理解されず、社会を理解できない人間になってしまう。
それが、恐いのだ。

休学して、学問と距離を置くようになってからは、「普通」の人間らしさを少しずつ理解できるようになっている。
自分の感情を自覚することで、他人の感情もわかるようになってきた。
まだ、全然理解できない考え方や感覚もたくさんあるのだけれど。
今の私は、勉強に没頭しているときの私より、社会と繋がっていると思う。

幸いにも、私はこの休学期間に、社会を意識しなければできないお仕事を始めることになった。
今後も続けていくつもりなので、学問しながらも、社会を見つめる必要性がある。
マルチタスクを学ぶ良い機会だ。
また、世間一般の感覚を持つ人を恋人に持つことができた。
彼が私を繋ぎとめてくれると思う。
ギャップが開きすぎて別れるかもしれないけれど。そうならないように頑張りたい…

復学してアカデミアの仲間入りを目指すことにしたが、同時に社会の感覚を失わないよう、気を付けて努力しなければならない。
恐怖は、回避するか克服するか。私は克服したい。

私の価値観に、価値を見出してくださりありがとうございます。