見出し画像

個人かカテゴリか

「親」は「子ども」を養育しなければならない。
「先生」は「生徒」を導かなければならない。
見捨てることは,基本的に許されない。

衝動性が高かったり,犯罪加害者になりやすかったり,どんな個人であっても。
Adrian Raineの「暴力の解剖学 神経犯罪学への招待」を読んでいると,暴力性には個人がもともと持っている性質が大きく寄与しているようである。
どんなに親や先生が気を付けても,どうにもならない性質というのはあるのだと思う。

でも,それが「友達」や「パートナー」であれば,避けるという選択肢が存在する。
「クラスメイト」はちょっと避けにくいかもしれないけれど。

生活の中で,人はカテゴリを着替えている。
学校に行ったら「生徒」になるし,家に帰ったら「子ども」になる。
家庭によっては,「娘」「息子」かもしれない。
会社に行ったら時には「部下」で時には「上司」かもしれない。
そして家に帰ったら「妻」とか「夫」とか「親」とか。
多くの家庭では,「母」「父」でわかれているのかな。
もしくは独身貴族でカテゴリを脱ぎ捨てる人もいるのかも。

他者との関係性に個人が登場することは思っているよりずっと少ない。
それは私に武器となる個性がないからかもしれないけれど。
「先生」が相談に乗ってくれるのは「学生」だからだろうし,
「先輩」が教えてくれるのは「後輩」だからだろうし,
「同期」が誘ってくれるのは「同期」だからだと思う。
それは私でなくても,同じこと。
私だから存在する関係性は,考えてみるとほとんどないのかもしれない。

「友達」が乏しい私は,「たまたま同じ時間を過ごすことが多い人」と「個人的に選択的に意図的に時間を共有したい人」をあまり区別せずにまとめて「友達」と言ってしまう。
後者が理想的な友達だけれど,まあ,そんな人なかなかいないもんね。
そこまで他人を知ろうと努力してないからかもしれないけれど,今はそれもコロナのせいにできる。自粛生活万歳。

親子関係だってそうだ。
私は親を個人として知ろうとしたことがないかもしれない。
どういう人間なのかわからない。

他者にカテゴライズされて私の衣装が決まるけれど,同時に私もカテゴライズして他者の装いを固定している。
それ以上に知ろうとしないことは,楽で生きやすい。
それなのに,他者から個人としてみてもらえないことは時に虚しい。

はてさて,私があらゆるカテゴリから抜け出して個人でいられる関係性というのは「パートナー」だけなのである。
世の中には「彼女」というカテゴリがあるのかもしれないけれど,「彼女」らしいことを一切しない私にはそのカテゴリは存在しない,多分。
自認する性が男でも女でもない私が3年以上表向きの恋人関係を継続できているのは,彼が私を個人としてみてくれているからなのだろう。
「彼女」というカテゴリを着せられたら,私には続けられない。
私には恋愛経験も知識も,恋愛に対する意欲・関心・態度も欠如している。
だから私も彼に「彼氏」というカテゴリは求めていなくて,彼個人を頼りにしている。
交際開始日があいまいなのも,当初は関係性に名前を付けることが嫌だったのも,そういうことかもしれない。
いつまでも個人と個人で在りたいのだ。

この先「妻」と「夫」になることがあるかもしれないし,可能性は低いけれど「母」と「父」になることもあるかもしれない。
でも個人と個人であることをやめたくない。
もしもちっちゃな生命体を「子ども」とカテゴライズする未来があっても,個人としての関わり方を模索したい。
きっととても体力と精神力がいることなんだろう。
もうダメだ,カテゴリに埋もれて個人が消えてしまうってなったとき,離婚してしまうものなのかもしれない。

関係性に名前が付くイベントは避けたい。
変わり続ける人生,そうもいかないので,表向きのカテゴライズに対応できるようになりたい。
私は私だって,それは私と少数の近しい人が知っていればいいだけで,カテゴリを着用することとは関係ないのが世の中なのである。

私の価値観に、価値を見出してくださりありがとうございます。