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ネットで詩を書いている馬鹿のつぶやき③

僕の詩はあまり難解な漢字は元より使わないのだが、果たして詩に漢字は必要なのだろうか?と ふと、思ったのだ。確か現代詩フォーラムで羽衣なつの氏のひらがなだけの詩を読んでいたときだ。なぜある言葉を僕はひらがなでなく漢字で書いたのだろう? そんな疑問がよぎった。(https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=347811)

技術論とか柔らかい印象が醸せる、なんて事は置いておいて。その漢字の意味をどれだけ深く捉えていただろう。例えば詩を朗読するとき、その漢字は聴くものには通じるのか。僕は「漢字(活字)を見る」ということに、あまりにも依存してはいないか。(漢字を使うことの否定ではない)

詩を書く時、日常の自分の生活で使わない漢字の言葉を平気に使っている人がいる。それは小学から高校まで漢字を習い漢字を覚えたからで、その漢字の語源とか昔の学識者や文学者がどのような文章でそのような漢字を使っていたのかは知らないのではないか。単にその漢字の表面的な意味なぞり、短い言葉で言い表すとき漢字は便利だからというだけでだ。また、内容がどうであれ難しい漢字を多用するとなにかしら学識の高い文章に見せかけられる場合もある。だが漢字には本当は、ひとつひとつ奥の深い意味が込められているのではないだろうかと思う。(この辺りは白川静の著書などが浅学な僕にもわかりやすかった) 最初から平易にしか書けないことと、敢えて平易に書くのでは文章の深みは全く違う。

或いは平易に書けることを難解に書こうとする人たちが詩が日常的に読まれることの弊害になっていないか。もちろん、予備知識がなくては楽しめない小説や詩、音楽を僕は否定しない。(能動的鑑賞、受動的鑑賞?と言えばいいのか。楽しみ方は様々だ)しかし、もう一度、立ち止まり考えてみるべきではないか。

少し話が逸れたが、そういうことをたえず詩を書きながら自分に問い続けることで詩情により近づける言葉を見つけることができるのではないかと、ふと思ったのだ。

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