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鵜に学ぶ。

いつから、
「頑張る」ことをやめられなくなったのだろう。

堕落していく恐怖か、自分がゴミくずを通り越して汚物になる恐怖か。

そのくせ、お付き合いした男性はみな依存心が強く、常にだらけていてろくに自分のこともできなかった。
腹が立たって「楽な方に流れ過ぎだよ。誰かが何でもお世話してくれてるといずれ痛い目を見るよ?」と私が諭すも、「めんどくさいも〜ん」…。
ダメだコリャ。


私の❝頑張る❞は、多分彼らとは違う次元の頑張りだった。

「頼れる家族がハナっからない状態」で
「自分がだらしなくならないように」と必死だった。

ちゃんと食事を作らなきゃ。
洗濯して、掃除して、整理整頓して、体調管理して…内職もやらなきゃ…

強風の中、私を見て海中を潜って逃げる鵜に、
「そりゃ飛びづらいわなぁ…
❝逃げる❞って目的が果たせるなら、楽にできる方法を選ぶよね」

自然界でもそうなのだ。

野生生物でもそうなのだ。


食事を摂るという目的が果たせれば、疲れ切っているときはレトルトでいいのかもしれない。

掃除は意識的にやらなくても、気になったときにコロコロかければいい。

洗濯もあまり汚れないものは頻繁に洗わなくてもいいかもしれない。

人前に出る時の服はキチンと手入れはするけど、家の部屋着まで丁寧に手入れできないときもあるか…。



多分、楽をすることに罪悪感を抱くのは自分の劣悪な生育環境に所以するところだと思う。

だらけた元カレたちに腹を立てていたのは、自分にはなかった「恵まれた環境」を彼らが享受していたからだ。
だらけていても怒られない、何でも人任せが当然の甘々な環境にいる彼らに苛立って仕方なかった。

ただ、不思議と私は「ああなりたい」とは思わなかった。
内心彼らには呆れていたからだ。
そして、「彼らは楽かもしれないけれど、楽が目的になっている」とわかっていた。
だから手を切った。


私が鵜から学んだ「楽」は目的を達成するために「やりやすい方法を選ぶことは悪いことではない」ということだ。

罪悪感を持たなくていい。

自分がこだわりを持って取り組んでいることは楽を選んじゃいけないシーンもあるかもしれない。

ただ、日常生活の中で周りに迷惑にならない程度の「楽な代替案」は取り入れてもいいんだろうな…と感じた。

頑張りすぎて完全に折れかかっていたときに、鵜は潜って逃げて見せてくれた。
もちろん、私が怖いから逃げたんだけど。

「そっかぁ、代わりに潜って逃げてもいいのか…この風じゃ飛べないもんね」

自然はあるがまま、
私に「当たり前」を教えてくれた。



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