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法学部で学ぶ意義や面白さって何だろう?

筆者

名古屋大学教授 宮木康博(みやき・やすひろ)
出身校:同志社大学法学部・同大学院法学研究科/愛知県立一宮高校


1 .タイムマシーンがあったなら

 大学教員になりたての頃,ある先輩教員から「なぜ法学を研究しているのですか?」と尋ねられ,答えに窮〔きゅう〕した苦い経験があります。大学時代のゼミ(少人数制の授業)が楽しくて,自分のゼミを持つ教員生活のスタートに意気揚々としていたわけですが,初っ端から躓〔つま〕ずくことになりました。高校生の頃を思い返してみても,「名探偵による真相解明が痛快だった」程度に刑事事件に関心があっただけで,「なぜ」に対する答えはないままだったことに気づかされました。高校生の頃は,「法学部はつぶしがきくよ」という言葉が救いだったのかもしれません。それはそれで良いのかもしれませんが,例えば,「基本が大事」というアドバイスをされると,「そうか,自分はまだ基本ができてないのか」となるわけですが,実は,何が「基本」なのかはわからず,結局,「何をすれば良いのかわからない」という経験をしたことがある人は少なくないでしょう。「つぶしがきく」も同じで,なぜそのように言えるのかを言葉にして語らなければマジックワードであることに変わりありません。

 もっとも,学部選びに際し,将来,裁判官や検察官,弁護士を目指している人にとっては,「法曹〔ほうそう〕になるためには法学部じゃないの?」ということになるでしょうから,「なぜ法学部なのか?」という問いは愚問なのかもしれません。しかし,例えば,アメリカの大学に法学部はなく,法曹になりたい人はロースクール(大学院)に行くことになります。日本においても,法学部生の多くが法曹以外の進路に進む実情がありますから,法曹養成のためだけに法学部があるわけではないはずです。また,そもそも,法を知らないことで困った経験をしたことがある人は少ないでしょうし,きっとこれからもそうでしょう。その意味では,法は無意識的なもので構わないと言えるかもしれません。では,社会が目まぐるしく変化し,それに応じて学部も多様化する中にあって,なお法学部で学ぶ意義はどこにあるのでしょうか。高校生には戻れないのですが,皆さんにかつての自分を重ね,今だったらどんなことを伝えに行きたいのか,考えてみたいと思います。

2.Ubi societas, ibi jus――社会あるところに法あり

 「社会あるところに法あり」という法諺〔ほうげん〕があります。この言葉は,人が営む社会には秩序がなければならず,それを保つためには,何らかのルールが必要であることを表現したものです。皆さんが通う学校にも校則があるように,大小を問わず,コミュニティーにはルールがつきものです。コミュニティーによって保たれるべき「秩序」にも色々なものがあるわけですが,一般化すれば,「より良い社会の実現」という目的を達成するためのツールとして人が編み出したものがルールと言ってよいでしょう。法が「人類の英知の結晶」などと言われるのもそのためです。

 近隣の高校や東京,大阪などで行う出前講義では,「法学部は法律を暗記するところでしょうか?」との質問を受けることがよくあります。「法律を知ることは社会を知ること」などとも言われます。では,社会がルールの下で動いている以上,それを覚えることが大事ということになるのでしょうか。何事にも最低限の知識は必要ですが,法律を覚えること自体に意味があるわけではありません。「なぜ」そのようなルールになっているのかを考えてみることに法を学ぶ1 つの意義があります。皆さんの記憶に新しい2019 年4 月に発生した「池袋暴走死傷事件」を例に考えてみましょう。

3.法の目を通して見てみると

 この事件は,当時87 歳の高齢者が車で事故を起こして2 名の尊い命を奪い,9 名に重軽傷を負わせたものです。容疑者が逮捕されなかったことや裁判で無罪を主張したことに対し,「上級国民への忖度〔そんたく〕ではないか」,「無反省で神経を疑う」との非難が向けられました。では,法の目を通してこの事件に向き合ったら,どのような世界が見えてくるのでしょうか。

(1)「推定無罪」の原則と無罪の主張

 「推定無罪」という言葉を聞いたことがあると思います。ハリソン・フォードが主演し,映画にもなりました。「推定無罪」とは,罪を疑われた人であっても,犯罪が刑事手続を経て立証され,有罪判決が下されるまでは,できるだけ「罪のない人」として扱われなければならないとする原則です。もっとも,日本の裁判では,有罪率が99%を超えていますから,「推定有罪」の方が実態に即しているとも言えます。では,なぜ「推定無罪」が原則とされているのでしょうか。 この原則の採用は,古くはローマ法の時代に遡〔さかのぼ〕ります。そこでは,「訴追者〔そついしゃ〕が立証(犯罪を犯したことの証明)できないときは,被告人〔ひこくにん〕は釈放〔しゃくほう〕される」とありました。しかし,中世に入ると,「一定の嫌疑〔けんぎ〕があれば,十分な証明ができなかった場合にも軽減された刑罰を科する」という嫌疑刑が登場します。疑いさえあれば,刑罰を科すことができることになったわけです。これにより,「推定無罪」の考え方が大きく揺らぐことになったわけですが,こうした制度は―ないことの証明は「悪魔の証明」と言われるように―嫌疑がないことの証明を被告人に負わせることになるため不合理ではないかとの批判にさらされました。そこで,18 世紀末のフランス革命における「人および市民の権利宣言」では,「すべての者は,犯罪者と宣告されるまでは,無罪と推定される」とされ,1948 年の世界人権宣言でも同様のことが謳〔うた〕われています。わが国でも明治以降,刑事手続の基本原則として採用され,今日に至っています。

 国家に疑われるだけで不当な扱いや処罰が許される社会の恐ろしさは想像に難〔かた〕くありません。「推定無罪」の原則には,市民的自由を守ろうとする考え方が反映されているのです。本件の被告人も自分の運転する車で被害を生じさせたこと自体を争っているわけではなく,この事件で被告人は,「車の故障が原因である」として無罪を主張しているのですから,検察官が被告人の不注意が事故の原因であることを立証することが求められることになるはずです。そうすると,「推定無罪」にある被告人に裁判で無罪を主張することを許さないとすることは,市民的自由を手放す負の歴史に舞い戻ることになってしまうのです。 後日談として,本件被告人には,2021 年9月2 日に禁錮〔きんこ〕5 年の実刑判決が言い渡されました。判決文では,「量刑の理由」を述べる箇所で,「被告人は,当公判廷において,被害者らについて申し訳なく思っているなどと述べて謝罪の言葉を口にしているが,他方で,多くの客観的な証拠を目の前にしても,アクセルとブレーキを踏み間違えた記憶は全くないと述べ,自らの過失を否定する態度に終始しているのであるから,被告人が本件事故に真摯に向き合い,自分の過失に対する深い反省の念を有しているとはいえない。」との判断が示されています。本判決も,無罪を主張すること自体を否定的に捉えたものではなく,量刑を考える上で,車の故障ではないことを示す「多くの客観的な証拠を目の前にしても……自らの過失を否定する態度に終始している」ことを反省しているとは言えないと評価したわけです。

(2)「推定無罪」の原則と逮捕

 では,逮捕されなかった点はどうでしょうか。この点も「推定無罪」の守備範囲です。もっとも,嫌疑を受けた者として,刑事手続の中で特別な地位を有する以上,一般市民とまったく同一に取り扱わなければならないとするのは不合理でしょう。異なる取り扱いをすることに合理的な理由があれば,その地位に応じた自由や権利の制約が認められてもよいはずです。「できるだけ」罪のない人として扱われなければならないとされるのは,このことを含意〔がんい〕するものです。問題は,何をもって合理的な理由があると言えるのかです。

 ルールは,一定の目的を達成するために設定されるものですから,逮捕には,刑事手続の目的を達成するために必要であることが求められるはずです。刑事手続について定めた刑事訴訟法の第1条には,「この法律は,刑事事件につき,公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ,事案の真相を明らかにし,刑罰法令を適正且〔か〕つ迅速に適用実現することを目的とする」とあります。ここでは,犯人処罰という公共目的の活動も,処分を受ける者の権利に配慮することが要請されており,そうした配慮がなされた手続によって真相を解明し,犯罪と刑罰が定められたルールを適正に適用することが目的とされています。つまり,逮捕する合理的理由としては,対象者の行動の自由が奪われるわけですから,刑事手続の目的達成のためになぜ逮捕が必要なのかについての説明が要求されることになると言えそうです。

 そこで,逮捕に関する規定を見てみると,逮捕には,①罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があることと②証拠を隠したり,逃亡したりするおそれがあることが要求されています。刑事訴訟法の目的との関係では,対象者の選定にあたり,その者が犯罪を行ったと疑われていることが必要ですが,それだけでは足りず,証拠を破棄されたり,隠されたりしてしまっては真相を解明できない,逃亡されては,たとえ真相を解明できても,刑罰を適用実現できないことに合理的理由を見いだすことができます。そもそも,「推定無罪」が働いているわけですから,逮捕は疑われたことを理由とするペナルティではないはずです。法は,その目的を達成するために対象者の人権保障に配慮しながら,罪証隠滅〔ざいしょういんめつ〕や逃亡のおそれのいずれかが認められることを要求しているわけです。法の目から見れば,本件でも,こうした事情が認められるのかが問題の本質です。皆さんも逮捕状を発付〔はっぷ〕する裁判官になったつもりで,本件の被疑者〔ひぎしゃ〕に証拠を隠すおそれや逃亡するおそれがあると言えるのかを考えてみて下さい。本件で被疑者が逮捕されなかったことに対して「忖度」とは違った受け止め方が出てきているのではないでしょうか。

(3)ある裁判官からの言葉

大学院生の頃,指導していただいていた元裁判官の教授から,「人は誰しも自分の痛みには耐えられないが,他人〔ひと〕の痛みには耐えられるものなんだよ」という言葉がありました。法学は「自分さえよければよい」学問ではないことを鮮明に表現された言葉です。ここでいう「他人〔ひと〕」は,今まで述べてきた被疑者や被告人だけではありません。この言葉の中で語られている「他人〔ひと〕」には,犯罪被害者やその家族も含まれます。池袋暴走死傷事件では,被害者遺族の方の大変痛ましい姿が連日報道されました。法学は,「より良い社会の実現」を目指すものですから,犯罪被害者やその家族の想いをないがしろにしたり,信頼を失ったりするようなものであってはならず,その支援にも目を向けるものでなければなりません。また,このことは,被疑者や被告人の家族にも当てはまります。被疑者や被告人の家族も事件で苦しむことになる「他人〔ひと〕」なのです。

 「より良い社会の実現」のためには,色々な立場から物事を見ることが必要になり,自分にとって都合の良い1 つの立場から考えればよいわけではないことがわかります。確かに,1 つのグラスから他に一滴も水を譲るべきではない場合もあるわけですが,他方で,1 つのグラスから,水を分け合うことが必要になる場合や別のところからそれぞれのグラスに水を満たしていくことが可能な場合もあります。つまり,必ずしも,一方に配慮すれば,他方の配慮が不十分になるといった関係にある場合だけではないのです。そうであるにもかかわらず,自分の考えにそぐわない「他人〔ひと〕」の考えを,一様に二項対立〔にこうたいりつ〕的に捉えて批判することで満足するということでは,やはり「より良い社会の実現」には繫がらないでしょう。

 この辺りのことをもう少し考えてみたい方には,①寮美千子編『空が青いから白をえらんだのです』(新潮社),②東野圭吾『手紙』(文藝春秋),③木下惠介監督『衝動殺人 息子よ』(松竹)などをお薦めします。

(4)「つぶしがきく」の正体

 これまで述べてきたことを通して,事件は法の目を通して見るべきで,本件に向けられた非難がおかしいということを言いたいわけではありません。法が人に向けられたものである以上,人がどのように感じるのかを軽視してよいわけがないからです。「正しい」,「正しくない」ではなく,なぜ法がそのようなルールにすることを妥当と考えたのか,条文を暗記するのではなく,根本の「なぜ」から考えていくことこそが,法律問題に限らない汎用性〔はんようせい〕のあるものとして,今後皆さんが社会で直面する各種課題に対するバランスのとれた説得的な判断(なぜそのように考えることがベターなのか)に繫がるのであり,「つぶしがきく」ことの1 つの正体なのではないでしょうか。法学は,様々なことに目を配り,説得力を「言葉」によって表現する世界なのです。社会に出れば,責任をもった判断が求められます。正解のない問いであってもです。法学部では,法をツールに,それを可能にするためのトレーニングをしているのです。

4.「より良い社会の実現」もマジックワード

 法の目的は,「より良い社会の実現」と述べましたが,何が「より良い社会」なのか自体,一概〔いちがい〕に言うことはできません。社会には様々な立場の人がいますし,社会自体が日々刻々と変化するからです。この言葉も結局のところマジックワードなわけですが,この期に及んで卓袱台〔ちゃぶだい〕をひっくり返したいわけではありません。そうであるからこそ法学は面白いのです。

 IT の普及やAI を活用する社会の到来もその一例です。私が中学生の頃の英語テキスト「NEW HORIZON」では,夢のような,どこかSF 的な感じで,自宅に居ながらにして商品を購入することができることが描かれていました。しかし,今ではそのことが当たり前になったことで,IT 社会に新たなルールが必要になっています。IT は,国境を超えますから,ドメスティックな法学にも変化をもたらしているのです。また,悲惨な事故を防ぐために自動運転などAI にも注目が集まっています。IT やAI 社会に法学がどのような役割を果たすべきか。法学はお堅い静的な世界ではなく,ダイナミックな展開のある世界なのです。さらに,高校でも取り上げられているSDGs についても,法学は向き合わなければなりません。そこでは,「誰一人取り残されない」という理念があります。法学は,自分がよければそれでよいというわけではありません。自己の尊重を願うのであれば,他者の尊重が前提になるはずです。「より良い社会の実現」のためには,多種多様な立場やものの見方などと真摯に向き合うことが不可欠です。皆さんは,過去・現在に学び,より良い未来の社会を構築していく担い手です。自らの社会を「言葉」で構築する,そんな法学の世界に飛び込んでみてはいかがでしょうか。

※ 「法学部で学ぼうプロジェクト」編集部より

本記事は『「法学部」が面白いほどよくわかる』に掲載されたものです。
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