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教師の役割~生徒へのまなざし~

   教師の役割は、社会状況、きに対する人々のまなざし、教師の文化、教師生徒関係などの社会文化的な理由によって変化してきた。

高度経済成長期の教師は、生活水準の向上を願う国民の学校に対する要求と、社会人の養成という社会的な要請が互いにかみ合って、経済的な目標を助ける手段としての役割を人々から期待された。だけど、高度成長が安定した70年代後半から、社会からの要請と国民の学校への要求とのあいだの関係性が終わり、学校はさまざまな個人的利益をめぐる思惑が交差する場所となってきた。


教師はいかなる期待に応えればいいのか。今の教師は、しばしば相互に葛藤する多様な役割期待を負わされている。
   専門家たちは、現代の教師が直面する葛藤を分析している。教師を取り巻くさまざまな集団や団体は、それぞれに教師と役割関係を結び、多様な役割期待をよせる。専門家は、教師の役割というのはそれらをすべて含んだ全体であるという見方に立った上で、さまざまなメディアを通して教師へ向けられる規範的な期待や教育委員会が寄せる規範的期待を分析し、最近の教師像に関連するアンビバレンスな様相を描き出した。

特徴的なのは、模範的ではない教師のもつ魅力への関心や、個性や特技、多様な経験などが求められつつある一方で、これまでの教師像に関するステレオタイプに近い教師像―人間性や模範性を課された伝統的な理想像―が根強いことである。こうしたさまざまなレベルの期待に完全包囲されているのが、教師という存在なのである。



教師という仕事がアンビバレンスな特質をもつなかで、教師の行為はいかなる特徴をもつことになるのだろうか。小学校と中学校の教師を対象にしたアンケート調査によれば、経験ある教師の多くは、経験値によって積み上げられた自信を持っているた同時に、子ども、保護者、同僚をはじめとした身近な他者からの要請に対してセンシティブであった。

すなわち、経験ある教師なればこそ、多様な他者からのお互いに異なる役割期待を意識しつつ、それを日常的に調整と脳内処理をしながら、時と場合に応じて自らの行為を「選択している」と考えられる。

    それでは、教師の生徒へのまなざしは、時代によってどのように変わってきたのだろうか。自分なりにデータを調べてみた。

70年代、90年代、2000年代という3つの時代で、きから生徒への見方はどう変わっていったのか。日常的・具体的な指導場面で遭遇すると思われる生徒タイプについて、「好ましい」「どちらかといえば好ましい」「どちらかといえば問題だ」「問題だ」の4つの選択肢があるとしよう。


70年代を基準にすると、好ましい+どちらかといえば好ましい生徒の割合が増えたのは、90年代と2000年代であり、教師のまなざしは、全体的にいうとさまざまな生徒タイプを認める「許容型」へと変化した。


ただし、90年代から2000年代にかけて、好ましい+どちらかといえば好ましいタイプの生徒が増えたとはいえ、実際に2000年代の学校現場のふたを開けてみると、生徒の「従順性」を好ましく思う傾向を強めるとともに、教師に対する踏み込み(「先生と友達のようにつきあおうとする生徒」「授業中、先生をやりこめる生徒」)や、学校な対する意見主張(「学校に対して、不満や意見を堂々と主張する生徒」「授業中、納得するまで自分の意見をひっこめない生徒」)に対しては、以前より問題視する姿勢を強めている。

このような傾向は結果的に、個々の生徒の教師への踏み込みや反抗を、生徒の成長のプロセスとしてポジティブにとらえ、生徒の自主性・自律性や批判精神をあわせて育てていこうとするような、教師自身による従来の役割認知を変えさせる兆しと見ることができるのではないだろうか。


教師の役割は、学校内外の社会文化的要因によってどのように変化してきたのか。それは、教師の教育行為をどう変えさせ、結果的に、学校の機能をどのように変えるのか。教育かいわいの研究で問うていくべき課題であると思う。

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