わたしを空腹にしないほうがいい くどうれいん

『しかしときどきはこうしていのちをいただいている実感を得なければ。
わたしたちは必ず何かを奪って生きている。』
これは、丸ごと買ってきた魚を捌き、食べる頃には命をいただく気持ちが強くなりすぎて食が進まなくなってしまった時の玲音さんの言葉。

私にもこういう思いになるが故に食べられないものがあって、それは動物の内臓(耳や舌も)。
殺したからにはきちんと隅々まで食べるべきだという気持ちと、そんなに隈無く食べ尽くすなんて…という気持ちの狭間でどうしても食べることができない。
子どもの頃から、このお肉は私に食べられるためだけに殺されたんだ、と複雑な気持ちになることもよくあった。
そしてこういう話を人にして、めんどくせぇ奴だ、いいから黙って食えと散々言われてきた。

かといってヴィーガンになりたいわけではない。
じゃあ一体この気持ちってなんだろうと、彼女の言葉を読んで考えていた。

そんな時とある猟師の女性が、野生のたぬきを撃ち殺し、毛皮は剥いで肉は食用に捌く映像を見た。
ふと、私もああすれば食べられる気がすると思い、そんなことを思った自分に驚いた。(もちろん確かめるためだけに殺しに行くつもりはない。)
その時気がついた。
私が動物を心置き無く食べられないのは、自分で殺していない後ろめたさからだと。殺すと決まっている生き物を丁寧に育てる酪農家の方の努力や気持ちを、百グラム数百円で買う違和感もある。

じゃあ今日からどうすればいいって画期的な案は浮かばないけど、面倒臭い奴だと思われても、私はずっとずっとこのことを考え続けたいと思う。
そうしないと、お肉や魚はたちまち「パックの中の美味しい何か」になってしまうから。

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これは植物にも言えることなんだろうけど、まだそこまでは考えられていません。


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