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自己紹介

こんにちは。自己紹介を覗いてくださり、ありがとうございます!園長コマツと申します。ここでは、私の経歴やNoteにかける思いをお伝えします。お付き合いくださると、とても嬉しいです!

園長コマツ
とある私立認可保育所の園長です。 子どもや保護者、職員みんなが活き活きと暮らせる保育園へ向けて悩みながら改革中。 自分の取り組みや学びをNoteを通して発信します。 プライベートでは二児の父。 好物はハンバーグ。

私のこれまでの足跡

育った保育園

私の祖母は保育園を運営しており、父や母も保育園で働いていました。実家の隣が保育園で、歩いて五秒くらいで保育園に到着するというような環境でした。

昔ながらの保育園だったので、保育園の事務所があるフロアと祖母の居住フロアが一体になっており、保育が終わると事務所にいる父親と母親の所へ顔を出し、おやつをもらってから、家に帰るまでは祖母の居住フロアで過ごすという……今思うと、なかなかに特殊な成育環境だったなぁと思います。

まさに保育園で暮らし、保育園で大きくなったような幼少時代でした。

高校卒業後、1年間浪人生を経て4大の経済学部へ入学。

高校を卒業するタイミングで浪人することが決まりました。もともと父と兄は頭が良く、偏差値の高い有名大学にストレートで入学していました。比べて私は勉強の出来が悪く、一浪のうえに、兄や父と比べてかなり偏差値の劣る大学へギリギリ入学。それはもうコンプレックスの塊でした。

大学時代はサークルばかりで単位を落としまくる。

そんな大学時代はJazzのサークルにどっぷり浸かり、朝から晩まで楽器を練習していました。大人っぽい音楽であるJazzに、兄や父にはない楽器の特技、コンプレックスを打ち払うかのように、とにかくひたすら練習に打ち込みました。

もちろん、勉強の苦手意識は克服できないままですし、Jazzへの没頭により、授業なんて全然出ずな大学生活でした。当然のように毎年進級はギリギリでした。「何かに打ち込んでいる」と自分自身に言い訳をしながら…進路のことも考えないようにしながら…。

転機は東日本大震災

そんな私の転機は東日本大震災でした。当時、私の住んでいる地域もかなり揺れました。たまたま自宅にいた私は、外が騒がしくなっているのを見ると……園児が保育園から出て避難していました。

園舎は私がいた時からあるくらいなので、かなり古い建物でした。余震が続き、このままでは園児が下敷きになってしまうかもしれない…と園舎の外へ避難していたのです。

地震の直後は、社会的なインフラが全てストップしていました。子ども達も外に出たはいいものの、いつ保護者がお迎えに来てくれるかわかりません。そして保育者も家族の安否がわからないなか、必死に子ども達を不安にさせないよう、笑顔で語りかけていました。

そんな保育者の姿に…心を動かされた私は、自分自身も何かできないか、と子ども達と一緒にいました。特に何ができたというわけではありませんが、それでも何かをしなくてはいけない。そんな気持ちだったのをよく覚えています。

結局、その日はどうしてもお迎えに来られない保護者がおり、1人の子どもが自宅に泊まりました。不安そうにするその子と遊び、少しでも笑顔にできないか、と行動しました。翌日、お迎えにきた保護者に抱き着くその子の姿は今でも目にやきついています。

この時に「子どもの育ちを守る保育士」という仕事へ、少しずつ興味が出ました。

大学を留年、と同時に夜間の保育士専門学校へ

結局、大学の留年が決まった私は夜間の専門学校へ通う事にしました。あの東日本大震災が私の生き方を大きく変えたのです。というのも、私の生まれ育った園舎が東日本大震災の際に耐震強度に不安があることが発覚したのです。

当時、園長になっていた父に「建物を移転して新園舎を建てるかは、後継者がいるかどうかにかかっている。園長をする気はあるか?」と問われたのです。当時、兄は保育園の運営とは別の仕事に興味を持っていたので、私にその話が回ってきました。

私はかなり迷いました。そもそも勉強ができない落ちこぼれですし、保育園の運営なんて自分にできるかなんて、全く自信がありません。

それでも、東日本大震災で子どもを守る保育士の映像が、自分の中にたしかにありました。さらに自分が生まれ育った保育園がなくなってしまうことに、大きな寂しさを覚えました。私はそこで保育の道にすすむことを決心しました。

悩みながらも楽しい保育士時代

これまでの勉強コンプレックスを克服するため……という動機もありましたが、保育の勉強は自分でも驚くほど、楽しかったです。子どもの育ちはとても神秘的で、まだまだ解き明かされていない事や世の中にあまり出回っていないような知識もたくさんありました。保育という営みも、とても奥が深いことに気が付きました。

「保護者が仕事に行っているあいだ、子どもを安全第一で預かるだけ」

そんなイメージだった保育への見方が180度変わりました。

「子どもは自分自身の力で育つことができる。大人は子どもがより良く育つために支援をする存在」

専門学校を卒業後、武者修行として、実家の保育園ではない保育園へ就職しました(もちろん、就職面接の際に事情はお話して受け入れてもらいました)。

保育士としての仕事は、悩みながら一進一退の日々でした。
ただ、対こどもへの関わりもそうですが、同僚や先輩など大人への関わり方の難しさを感じました。

壁にぶつかる『管理者』という立場

武者修行として、2つの園で担任業務を経験し、いよいよ実家の保育園へ副園長として就任しました。そこで驚愕の出来事がありました。

私の園は昔ながらの保育園ですので、一斉活動や保育士主導の場面が多くありました。大きな声を出す保育士が子どもを引っ張っていく。そのような光景が広がっていました。

私が学んできた「子どもは自分自身で育つ」という部分が感じられない保育だったのです。私は管理者として、保育の事にたくさん口を出しました。子どもの育つ力を信じること、保育者としてのあり方、保育の方法……。私なりに一生懸命伝えました。そんなある時、職員からこんな事を言われたのです。

「そんなに言うなら、コマツ先生がやればいいじゃないですか」

私はこの言葉にハッとしました。思えば、私は自分自身の思いを伝えるのにいっぱいいっぱいで、現場の職員の話をちゃんと聞いていたか…おそらく聞いていなかったのです。

私はいつの間にか職員へ「教える」という傲慢な姿勢になっていた事に気が付きました。

組織開発の必要性

この言葉をきっかけに、私は組織開発、おもにファシリテーションの勉強をしました。ファシリテーションは相互尊重を基に、対話を通して、チームや組織が自立していけるように支援する手法です。

相手の思いを引き出し、認め、自分が伝え……対話を繰り返していくなかで、少しずつ保育園を変革していきました。

保育を変えることは容易ではありません。しかし、少しずつですが、職員が子どもへの関わり方や見方が変化しているのを感じます。これからも、学びながら、子ども達のより良い成長ができる保育園を目指し、日々奮闘しています。

noteにかける思い

保育士が、子どもが、輝けるように。

最近では、「不適切な保育」や「保育士の一斉退職」などのニュースが頻繁に流れています。私が経験したような失敗は、おそらくどの保育園でも起こりうるものだと思います。保育士が輝けない事には、子どもが輝くことは難しいでしょう。

保育士の離職する理由の多くが「人間関係」と言われています。保育士はそれぞれ、子どもに対して大事にしていることが少しずつ違います。その違う中で、ささいな価値観のズレが人間関係の悪化に繋がり、それが最終的に保育へ、子どもへの悪影響へと繋がってしまいます。どちらが良いか悪いか、ということではなく、価値観のすり合わせをする機会が乏しかったり、手法がわからないのです。

私は、学んできた経験を少しでも現場で頑張る保育士や管理者に届けたいと思いました。さらに「子どもは自分自身で育つ力がある」ということを多くの人に知ってもらいたい、という思いでこのnoteアカウントを開設しました。保育者や管理者、保護者に向けて発信すること。それが最終的には、これからを生きる子どもに還元できると信じています。

これまで、私のやってきたことが絶対的に正解とは思いませんが、少しでも役に立てるような情報を発信していきたいと思います。

このような長文を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。皆様、どうぞよろしくお願い致します。

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