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雲の上を渡る仕事人

カナダからの帰り道だった。
エアカナダのフライトにトロント・ピアソン空港から搭乗していた。
約三万フィートの上空は、いつも苦手である。味覚が変わることで機内食を食べても味がしない。地上で食べるよりも濃いめの味付けにしているらしいが、私の舌は味覚障害を一時的に起こしている。
機内食を出されても大抵は殆ど食べることが、いつもできないのだ。
けれどエアカナダに乗るときだけは、唯一楽しみにしていることがある。離陸してから6時間くらい経つ時だ。機内の明かりが落ちた中、ゆっくりと優雅な動作でCAが後方からやってくると、食事はいるかと尋ねられる。CAが運んできたワゴンには日本人にとって見慣れた物が置かれている。赤文字で書かれた大手食品会社のロゴマークが見えるそれは、薄いフチの内側から少し湯気が漏れていた。
カップヌードルである。
勿論いる。それを唯一楽しみに搭乗したぐらいであって「いただきます」と日本語で普通に答えたが、CAは頷いてカップ麺を私に寄越した。
それを受け取りテーブルの上に乗せると、少しづつフチを剥いて中を見た。麺は茹で上がり、カップ麺独特の匂いを放ちながら記憶の中にある馴染み深い味を思い起こさせてくれた。
ビニール袋から箸を取り出し、二つに割る。
右手に箸を、左手にはカップ麺を。
準備万端な体制で、カップ麺の中に箸を差し込んだ。柔らかい麺は強く挟めば千切れてしまいそうだった。だから麺をそっと引っ張り、麺と麺の間から更にふわりと湯気が飛び出した。
やはり食べ慣れたものが目の前にあると、食欲が湧いてくる気がした。カップ麺など、しょっちゅうは食べない。時々どうしても食べたくなるときがあるのだ。ジムに行きだしてからは、添加物を含む食事はほぼ食べなくなったし、どうしても食べるときなんかは若干の背徳感を感じる。
でも、約三万フィート上空なんて誰も見ていない。ちょうど隣の席は空席だし、前の席の人なんかは離陸後に気分が悪くなったのか、横になれるよう随分と後ろに移って空いている三列の席を緊急的に使うこととなったのだ。
首を右に傾けると、外の光が漏れ出して明るい上空を飛んでいるのが分かる。文字通り、私の周囲は奇跡的にも人がいないという、とても珍しい状況なのだ。
まったく周囲に気を使わずに、カップ麺の匂いを楽しみながら、久しぶりに食べる食品添加物の象徴とも言うべき、まさしくゾクゾクと背徳感を感じる食事の時間だ。
もう良いだろう。超が付くほどの猫舌な自分でも幾分冷めて程よい熱を含む麺を口に入れることにした。
ズルズルズル。柔らかい麺は記憶の中にある期待通りの味と一致する。
ズルズルズル。この塩味。さほど弾力もなく舌の上でも潰せてしまうほど抵抗力を持たない麺と絡みつく出汁が、美味い。
ズルズルズル。いやぁ、美味いよ。美味いじゃないか。今はジムでどれくらい汗を流せば、この食べた分だけのカロリーを消費できるのか、なんてね、そんなことは考えたくはない。
一口、また一口と懐かしい味を噛み締めながら、楽しんだ。しかし、食べ終える頃になるとき、ふと気付くのだ。エアカナダの機内で食べるカップ麺は少し違った体験をすることになる。
麺を次々に口へ放り込むと、やがて麺は無くなる。そう、底が見えてきたらお終いなのだ。麺には出汁が絡み美味しいのだが、スープが殆どない。まったくないというよりかは、底から数センチ残るくらいだ。麺が吸ってしまっているからだとも思うが、もともと入れている水の量の加減を少なめにしている。つまり、約三万フィート状況というのは、誰しもの人の味覚を変えるのだ。だから、カップ麺でさえも塩味の高い作り方になる。よって味覚障害を引き起こしてる自分に合った食事なのだ。
空になったカップを、CAは片付けにくる。
日本に着くまでの時間は、まだ倍近くあった。
カナダと日本の直行便でフライトは12時間。
ぼんやりと続きの読書をしながら、うとうと時間を過ごした。
景色にモヤが掛かる。
眠気は早かった。
"ポーン"
「当便をご利用のお客様にお知らせ致します」
眠りに入っていた意識の底から、急に声を掛けられた気がして、息を飲み込んだ。ゆっくり吐き出した呼吸と共に、機内に流れるアウンスに耳を傾けた。
日本語でのアナウンスが丁度終えてしまい、英語でのアナウンスに切り替わっていた。というより、長々とした説明を一旦は英語から日本語へ、そしてまた続きとなる英語のアナウンスに移り変わったアナウンスのようだった。
ぼんやりとした意識の中で、目をパチパチとさせる。ビジネス英語で鍛えた頭を一点見つめるように、頭の中で英語から日本語に翻訳を務めるよう集中させる。
機内に流れる音声は、機長が自ら話していた。
飛行機は成田空港に着陸するという。
閉めていた窓を開けてみた。景色は特別変わっていないが、窓の外は街並みが見えていた。
機内アナウンスを始めから聞いていなかったが、予定していた羽田空港には行かず、成田空港に向かうと機長が言っていたのだ。
まだ、私の頭の中は混乱していた。眠気からは、すっかり冷めている。そうじゃない。混乱というのは、非日常的な事が起きているからだ。飛行機に何か問題があるから緊急で別の空港に向かうというのが、稀にある。しかし、この飛行機が何か異常が起きているということを、機長は言っていたわけじゃない。
この代替着陸となるダイバードという対応に、なぜそんなことが起きたのか疑問でしかない。
しかし、確実に言えることは機長にとって緊急的な事態が起きた事で、本来予定してない空港に向かい着陸することになったのだ。
前半の機内アウンスを聞いていなかった所為だろう。恐らく説明していたのだろうが、私は聞き逃してしまった。
シートベルトをお締めください、という声が聞こえた。前方からCAがやってきて、思わず声を掛けた。
「すみません、私、寝てしまって機内アウンス良く聞いてなかったんです。どうして成田に向かうことになったのですか?」
感じの良い微笑みを作りCAは短く説明してくれた。
一瞬、何を言われたのか、自分自身の耳を疑ったが、礼を返して座り直した。
機長は羽田に降りることを難しいと判断して成田に変えたという。
- 降りる事が難しいだって?
- そんな事があり得るのか?
自分の中にある質問を解消するために尋ねたのに、返って疑問が幾つも出来てしまった。
人生で様々な観光旅行や出張旅行もしてきて、その際に搭乗するいろいろな航空会社にも乗ってきたが初めての事態である。目的地の飛行場には降りるのが難しいから、降りられる飛行場に向かうというのは。
ちょっとよく分からない状況である。
CAが再び歩いてきて、窓を開けるように指示してきた。もう着陸する空港が近いのだ。
飛行機は程なくして成田空港に着いた。
ブルーからオレンジへのグラデーションに変わる雲ひとつない綺麗な配色で、実に長閑な景色だった。陽の光を浴びた搭乗客らと一緒に、機内から空港管内の長い廊下を歩いた。トイレに駆け込む客を素通りして、さっさと入国検査のエリアに入り数分も掛からない内に預けたスーツケースを引き取る手荷物引き取り所までやってきた。
まだレーンの回らない大きなベルトコンベアをぼんやり眺めて、ふと周囲を見た。同じ飛行機に搭乗していた他の客たちが片手にスマートフォンを見ているのが目に入る。
- そうだった。そういえば、羽田を取りやめて、成田に変わってダイバードした考えばかりに気を取られていたが、日本に着いたワケだからスマホの機内モードはもう切っても良いのだっけ。
そう思い、自分のスマホを内側のジャケットから取り出して、機内モードを切ってメールのアプリを起動させた。
12時間の飛行で、何か新着があるだろうとは思った。さっそく幾つかの迷惑メールを削除しながら、会社からの新着メッセージの中身を開いた。

『お疲れさまです。日本に帰ってきたばかりかと思いますが、来週早々に欧州へ出張をお願いします。今年の東京オリンピック開催に向けて、放送センターで活動する学生によるインターン生にインタビューを取ってきて欲しいのです。本来は広報部の部長が向かう予定でしたが、出張が難しいことになりそうです。カナダ帰りから直ぐで申し訳ありませんが、何卒よろしくお願い致します。メディア事業部 門倉』

メールをさっと読んで、直ぐ閉じた。
出来れば考えたくないことだった。
もう少しゆっくり出来ると思ったのに。仕事は待ってはくれないらしい。
いつもバレンタインデー週間になると、給湯室にはチョコレートのお菓子が置かれていて、その1ヶ月後には男性諸君からお金を掻き集めてホワイトデー週間用に女性陣が好きそうなお菓子を給湯室に置くというのが通例となる我が職場。どうやら今年は、その通例には参加ができないようだ。
来月にはアメリカ出張が予定で入っている。そういや俺の隣席の同僚なんて韓国のテグという街に今行ってて今月末に帰国というから、海外出張組は基本的には絶望的に休みがほぼない。代休は使えるけど。
- あーあ、もっと休みが欲しいなあ。
可能であれば、半月くらいゆっくりできる時間が欲しいのは本音である。寒い日はもう終わるのだから、暖かい日差しを浴びて桜を愛でるような、のんびりと過ごせる時間が欲しい。
本当に心の底からそう願う。
思わず深いため息がこぼれるとき、ベルトコンベアは一つ一つのスーツケースを乗せて、回り出した。

了.

宝城亘.


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