退職論文③

2章 退職に踏み切った理由

人間とは、そもそも多層的な存在であり、単一の側面や理由だけで決断することは稀であろう。私が今回退職を決意したのも、さまざまな立場としての自分に諮った結果、全ての視点において「辞めるべき」との回答が出たからである。ここでは、後に後悔したり同じことを繰り返すかもしれない自身や、後に続く人々の参考になればと、その結果を記しておくことにする。

※プライベートな内容を多く含むので割愛

1.ひとりの人間としての視点
2.大衆のひとりとしての視点
3.労働者としての視点
4.仲間としての視点
5.子どもとしての視点
6.大人としての視点
7.過去からの視点
8.未来からの視点

3章 よくある忠告とその回答

 退職の意向を告げた時、膨大な量の忠告と引き留めを受けた。本当にありがたい環境だったと思う。そのうちのどれだけが一人の人間として私のことを想っての、あるいは仲間/組織との一員としての、はたまた「自分の責任になる」「経歴に傷がつく」「面倒くさい」という個人的な理由からの忠告であったのかは分からない。あるいは、無自覚な深層意識を含めれば、どの発言にもその全部が含まれていたのかもしれない。

 とはいえ、実は、立場や真意は受ける側にとってそこまで重要なことではなく、注目すべきは発話者が誰であるかに関わらずいくつか頻出の忠告や引き留めがあったことであり、さらにそのどれもが少々物申したいものばかりであったことだ。そこで、ここでは、単純によく寄せられたコメントたちへツッコミをしていきたい。

 みんな辞めたいと思っている:我慢不足への嗜め

 近しい/親しい大人達に相談すると、その多くが「みんなそう思っている/一度はそう思うこともある」との回答した。もっとも、サラリーマン家系である私の、親類から友人まで、関わりのある人々は同様にサラリーマンであることが多く、それ以外の職業の人からも満遍なく話を聞けば、また違う結果になるのかもしれない。ただし、拘束あるいはルーチン化されたサラリーマンの人生においては、サラリーマンでない人と個人的な話をする機会も少ないというのが実情だ。

(数の面でもサラリーマン人口の方が多いから、全体的な多数決をとっても同じ結果になるのかもしれない。そもそも、大抵のアンケートでは、いくら割合が多かろうと「その他」について言及されることは少ないし、数で意見の正しさを決めることはできないから、これについて多数の意見を伺うことはそれほど意味がないのかもしれない。)

 みんなそうだ、誰もが一度は通る道、と言われた場合の、その主語が指し示すのは誰なのか、話者自身ではないのか、冷静に受け止める必要がある。

 もう少し(残って)よく考えたら:短慮への嗜め

 これは所属している組織の人々からよく言われたことだ。言われた内容を考える前に、言った人に対する考察をしておく必要がある。彼らの多くが、熟慮タイプの人間ではないだろうか。彼らは、「よく考えて」残ると決めた、あるいは考え中のままやり過ごしてそのままになってしまった人々なのである。
 起こり得たかもしれないこと、起こらなかったことについて、検証することはできない。このとき決断して退職した自分と、しなかった自分の比較はできない。しなかった場合に、していればよかったと日々思い続けるかもしれないが、わずかでもしなくてよかったと思う日があれば、しなかった自分を正当化してしまうだろう。

 熟慮タイプの人—「踏みとどまること」を正解とした/し続けなければならない人からの、「考えろ」というススメに対しては、それこそ一考する必要があるかもしれない。

 食っていけるのか?:向こう見ずへの嗜め

 若気の至りで後先を考えずに目先の快楽に走り、老後に困窮したらどうするのか。その心配はごもっともである。これは単純な親切心からの忠告であり、自分自身への心配でもあるのだろうから切実みがあり、軽々しく笑って退けることはできない。だが、常に明日のために今日を犠牲にするならば、永遠に犠牲の日々を続けることになる。

 また、冷静に俯瞰してみれば、生きるために働いているはずが、実質的には働くために生きている状態となっていることに気付くかもしれない。衣食住を確保するために働いているはずが、仕事の合間を縫って寸分を惜しんで食品を摂取しては、ものの数時間または数日間で、仕事のためにそれらを全部喪失していたり、人生において、自宅より会社への滞在時間のほうが、家族より仕事関係の人との接触時間のほうが、圧倒的に長くなってしまったりしているからだ。

 そもそも、一体「何」を得るために働くのであろうか。衣食住?承認?愛?老体になってからの安寧の確保や承認欲求を満たすために働いているのであれば、掲題の忠告へ耳を傾けるほうが良いかもしれない。だが、「食っていく」ことを心配されたならば、客観的に計算をしてみて、単に「食う」だけなら、それほどの稼ぎは必要ないことを証明してみても良いだろう。

 言動と実態を客観的に比較し、漫然とした不安に煽られず、根拠に基づいた判断をすることが重要だ。

おわりに

 時代の変化や自身の考えと決断について、決して良いとは思わない。失われてしまったものも多い。哀しいかな、とつけたくなる文も多かった。けれど、これこそが現状なのだ。楽なように見えて厳しく、自由なように見えて不安定だ。”掟を守っていれば・上に従っていれば、安心安全明るい未来を約束される社会”は、あちこちで崩壊してきている。好むと好まざるに関わらず—そもそも世界は誰も望まぬ方向に進んでいくものだが—先に崩壊した社会とは形態がやや異なるため瓦解を免れていたこの島国も、その神話が破れ始めていることは認めざるを得ないだろう。


 私は今まで、誰かの築いた世界で生きてきた。そしてそれは私が作ったものじゃないから、遠慮なく石を投げて批判し破壊してきた。とはいえ、年代によって、思想が違う—倫理感も描く未来も違う世界になってしまった以上、下の世代はまた新たな世界を生きているのだ。我々世代が良いと思っているものを躊躇なく壊すだろう。我々がそうしてきたように。はたまた我々が悪だと思っていることが一世風靡するかもしれない。急激な善悪の交代など、歴史を参照すればさして珍しいものではない。だから、守らねばならない。私が良いと思うもの、好きなもの、全て、護らなければ消えていく。残そうとしなければ、跡形もなく消えかねない。生み出し、形にし、残し、生み出し続けていかねばならない。世界は不可逆でエントロピーは消して減少しない。

 混沌と濁流の中を、もがき苦しみながら泳いでいく決意を固め、締めくくりとしたい。

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