見出し画像

大阪市生野の鶴橋をモノクロ現像

大阪市生野区、鶴橋。
むしろ、生きていることを実感できる場所。
現代人が抱えるあらゆる苦悩や困苦を吸収してくれる。
その代わり、時代を超えて、多くの悲哀がうごめいている界隈だ。

・・・Wikipediaによると、
1910年の日韓併合を経て、1922年に済州島と大阪をつなぐ直行便「君が代丸」が就航、これを機に多くの朝鮮民族(大半は済州島出身者)が労働のために日本へ渡航するようになり、大正期から耕地整理や平野川改修工事といった土地区画整理事業が始まっていた猪飼野周辺が受け皿となった。
1945年の日本の敗戦後、朝鮮半島は独立で日本ではなくなっため、戦前渡航者の約3分の2は済州島に帰った。しかし、1948年に起きた済州島四・三事件以降に再び多くの済州島出身者が日本へ渡航してきた。
事件の凄惨さと独立後の朝鮮半島への失望から日本での生活を懐古したり、日本に残った親族や知人を羨んで、命がけで日本海を渡り密入国を図る者が絶えなかった。特に関西、生野区は朝鮮半島残留者がいた為にそれを上回る数が目指した。
・・・とある。

多くは語るまい。いや、語る資格などない。

しかし、世界的な韓流ブーム、中でも芸能とグルメブームの中で、新たな生野、新たな鶴橋も垣間見えた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?