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蝦夷の時代9 和人地についてアイヌとの争い

アイヌ民族と和人(日本人)との戦いで、蝦夷地において民族の間で大きな溝ができました。

それまでは、共存共栄の意識がお互いにありましたがコシャマインの戦い後は敵対視関係となります。

下の地図は和人地の歴史を図にしたものです。
当初は道南の松前から上ノ国くらいしか和人地でなかったものが、次々と拡大していきます。これには長いがかかっており、都度アイヌ民族との戦いがありました。和人地とアイヌ民族との境界に関所が置かれた時代もあったのです。


こうなると、この和人地の地盤をめぐる争いとなってきました。
和人の総大将となった蛎崎(武田)信広は、西の上ノ国から東の志海苔までの豪族を支配することとなります。
しかし、総大将とはいっても蝦夷の管僚は安東氏でした。蝦夷管領は蝦夷守護とも津軽守護人ともいわれていました。蛎崎一族は蝦夷守護を安東氏から奪い取るための策略がはじまります。

執権北条氏は、海運ルートを重視して勢力をはかっていたので十三湊を拠点とする安東氏は、その関係で起用されまたとみられます。
安東氏は津軽の十三湊を拠点とし、はじめは津軽地方の治安警察的性格のものでしたが、居住する蝦夷および往来する蝦夷を通じ蝦夷の地へ勢力を広げていました。
15世紀半ばに、南部氏との争いに敗れた安藤氏は十三湊を放棄して蝦夷島にのがれるはめになりましたが、本領を失ったわけではなく蝦夷支配権は安東氏のものでした。

和人地とはいっても渡島半島の南端部程度で、アイヌの地盤と人口は比較にもなりません。自由に交易をしたいアイヌと、交易を独占したい蛎崎一族(後の松前氏)との間には、延々と代を継続して戦いが続いていきます。

永正9年(1512)4月、アイヌ軍は箱館、志苔、与倉前(志苔と湯の川の間)を襲い、館主は敗れ戦死、子孫たちは蠣崎に臣従しました。

翌年、大館がアイヌに攻撃され相原、村上は自殺して両家も滅亡します
この大館の相原が「北海道のむかし話」として伝えられています。
下記です。
大館の滅亡はアイヌ襲撃によるとされていますが、実は蠣崎光広(武田二代目)の謀略と伝えられています。


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