見出し画像

観光客が行かない苫小牧巡り・前編


苫小牧市


マルトマ食堂 (苫小牧市) 

ホツキカレー

20年以上前になりますが、苫小牧フェリーターミナルを訪ねた時に売店の人に「苫小牧の人が良く行く食堂はどこですか」と訊ねました。
すると若い女性は「私がよく行くのはここです」と地図を出して指差し「ただし、2時までしかやっていません」と念を押してくれました。

早速、行ってみました。そこは苫小牧漁港にある漁師のための食堂でした。廊下に行列が出来て待たなければなりません。順番が来て中に入ると、年季のはいった狭い食堂でしたがメニューを見ると安いのにビックリ、隣を見るとさらに驚くほどの量でした。
売店の女性お薦めの「ホッキカレー」を頼みました。
カレーは良く食べますが、苫小牧沖で獲れるホッキがたくさん入っているのは初めてでした。これが実に旨い、病みつきになるほどの美味しさでした。
すっかり常連になったころ特別メニューが入口に張られていました。
祝・駒大苫小牧高校優勝/ウニ丼1000円」。マー君(田中将大)たちも常連だったようです。今は、この食堂は苫小牧一番人気となり外まで並んでいます。
      
八王子千人同心

10年ほど前に町田市郊外で「八王子千人同心研究会」の張り紙を見ました。大変珍しく、東京でどのような研究をしているのか興味深く読みました。
八王子市の甲州街道沿いに「千人町」という地名があります。江戸時代、この辺りに幕府の家臣団である八王子千人同心が住んでいたからです。
千人同心とは、甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に地侍・豪農などで組織されていました。甲斐を離れ、現在の相模原市緑区の奥地や伊豆などで帰農する者もおりました。
十勝の開祖と言われる依田勉三は、西伊豆の松崎で豪農として成功した一族の三男です。
苫小牧と八王子は姉妹都市を結んでおり、この同心が220年以上を経た今日の苫小牧の礎となっているからです。苫小牧市民会館前に勇払千人同心の像が建てられています。

勇払千人同心の像

勇払会所(ゆうふつかいしょ)

勇武津資料館

JR苫小牧駅から日高本線で一駅目に「勇払駅」があります。ここは勇払川の河口にあたる地区で苫小牧発祥地になります。
私は、アイヌ民族のシャクシャイン蜂起(1669年)が起きた最初の場所はここではないかと思っています。
根室におけるクナシリ・メナシの戦い(1789年)の後、幕府は1799年に松前藩を外し蝦夷地直轄とし、場所請負人を廃し会所を設けました。勇払は幕府の出張所で物流やアイヌ交易の地域だったところです。

八王子千人同心

八王子千人同心は、寛政11年(1799年)に蝦夷の警備と開拓を幕府に願いでます。農作や養蚕を行い、武術の心得もあることから警備と開拓に適していると承認され、寛政12年43名で出発。翌日に57名が出発し100名体制で開拓を目指しました。
50名が勇武津(苫小牧市勇払)に入植、50名は釧路の隣町白糠町の地に入植。両隊は自給自足により警備・開拓・交易・道路建設などに従事。これが、明治以降の屯田兵の第一歩と言われています。

しかし、自給自足するには程遠い収穫高でした。
飢えと極寒の開拓は思うようにまかせず、文化元年(1804年)までに病死者32名・帰国者19名を出し4年目に断念せざるをえませんでした。
若い女が淋しく雨の降る夜、泣きながら「この児にお乳を下さい」と戸をたたく、開けてみると姿はない。夜泣き梅女の哀話が今も残っています。

梅女像


この梅女像が苫小牧市民会館前の千人同心の銅像の下にあります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?