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大法鼓経 現代語訳(1)

名前が法華経に似ているし、内容も法華経に似ている。でも法華経ではない。そもそも説かれたのが王舎城ではなく舎衛城。
訓読を掲載している国訳一切経がNDLでも非公開。
自分で現代語訳してみようかなと。

元ネタは以下

大法鼓経 上

宋の天竺三藏・求那跋陀羅が漢訳したものを若本が日本語訳

私はこのように聞きました:

ある時、仏はコーサラ国の首都・サーヴァッティの祇園精舎におられました。
一緒にいたのは、男性出家者500人の集団です。
他にも、幾百幾千の菩薩たちがいます。
数多くの天の神、竜、夜叉、ガンダルヴァたちもいます。
幾百幾千の在家男性、在家女性もいます。
この娑婆世界の主である梵天王や帝釈天、四天王もいます。
また、あらゆる方角に広がる宇宙から来た数えきれないほどの参集者--出家の男女、在家の男女、そして菩薩--がいます。

その時に如来は、そこにいる僧俗の男女に対してこのような教えをお説きになりました。
「有があれば、苦楽がある。有が無ければ苦楽はない。だから、苦楽を離れることは涅槃第一の楽なのだよ。」と。

そこにいた声聞の出家者500人は、全員が阿羅漢であり、様々な心の垢を落としきっていて、もはや煩悩はありません。
彼らの心は解放されており、それはまるで空を自由に泳ぐ大いなる龍のようです。
彼らは、素晴らしい解脱の智慧を心に備えて、素晴らしい解脱に到達しています。
一切がいずれ滅びるという真理を明確に知見し、生存のための重荷を捨て去っています。
自己の修行の目的を果たしていて、自己を世界に結びつける諸々の束縛を尽くしています。
正しい智慧によって心は解脱し、一切心自在第一という状態に到達しています。

このような、もはや学ぶべきものが無い修行者がいる一方で、まだ学ぶべきものがある修行者も、数えきれないほど集まっています。
彼らはそれぞれ、修行の状況に応じてシュダオン、シダゴン、アナゴンの各レベルに到達しています。
また、煩悩を残している者向けの教えをマスターした修行者たちが、数えきれないほどいます。
さらに、計り知れないほど膨大な功徳を成就した菩薩たちが、あらゆる方角の宇宙からやってきました。
あまりに多すぎて、数えることも譬えで表現することもできません。
声聞や縁覚でさえも、その数を知ることはできません。
ただし、文殊菩薩、大力菩薩、観世音菩薩、弥勒菩薩といった上級レベルの菩薩たちは除きます。

また、女性修行者のケーマーさんが他の女性修行者たちと一緒にいて、ヴィサーカーさんやマリッカー夫人が、それぞれに数えきれないほどのお供を連れています。
そして、スダッタ長者も在家男性たちと一緒にここにいます。

その時、世尊は参集した皆の前で「有と非有」という法門をお説きになりました。
その時、プラセーナジット王は寝床から起きて、こう思いました。
「今から世尊のおられるところに向かわねば」と。
王はすぐ行動に移し、太鼓を打ち、ほら貝を吹いて仏のおられる場所に向かったのです。

その時、世尊はその様子に気づいてアーナンダに問いかけました。
「アーナンダよ、どういうわけで、太鼓とほら貝の音が聞こえているのだ?」

アーナンダは仏に申し上げました。
「プラセーナジット王が仏様に見えるため、こちらに向かってきています。そのため、太鼓とほら貝の音が鳴っているのです。」

仏がアーナンダに告げました。
「いま、あなたもまた大いなる法の鼓を打ちなさい。私は今から大法鼓経を説こう。」

アーナンダは仏に申します。
「世尊よ、その大法鼓経という名前ですが…私は今までに聞いたことがありません。どのような理由があって、大法鼓経と名付けるのでしょうか?」

仏「どうしてそれを知ろうとするのか。この大集会に来ている諸々の菩薩たちでさえ、だれ一人としてこの大法鼓経の六字名号を知ることはできない(六字名号:梵語では六文字となる)。ましてや、菩薩ではないあなたがどうやってそれを聞いて知るというのか?」

アーナンダ「世尊よ、未曾有のことです。この教えの名号は、実に知ることが難しいです。」

仏「アーナンダ。そう、それが真実であり間違いのないことだ。アーナンダよ、この大法鼓経は世界でも稀なものである。例えるならば、三千年に一度だけ咲くと言われるウドゥンバラの花のようなものだ。」

アーナンダ「一切の諸仏にはこの教えがあるのですか?無いのですか?」

仏「過去未来現在の三世諸仏には、必ずこの教えがある。」

アーナンダ「どの仏もこの教えを持っているならば、彼ら立派な菩薩たちは、なぜ皆がわざわざこの娑婆世界に集ってきたのですか?彼らの地元の如来は、なぜ自分の国でこの教えを説かないのでしょう?」

仏「人里を離れて山の洞窟に隠れている、阿練の修行者のようなものだ。
その修行者が、時間になったので托鉢のために村に来たとしよう。

彼は食料を乞うために道に入ったのだが、そこで彼は人や獣の屍が雑然と横たわっているのを見たのだ。
屍を見て、現世に生きることを厭い、托鉢を中断した。

そして洞窟に戻り、彼は『ああ、苦である!私もまた必ずあのような屍になるのだ!』と思うのだ。

また別の日、その修行者の気分が良くなってこう思う。『私はまた村の方にいって屍を観察しよう。現世を厭う想いを増幅させるために。』と。

そして、屍を見るために集落の方に向かい、そして不浄想の行を修める。
このように観察し終わって、阿羅漢という悟りの境地を得るのだ。

このように、他の世界の諸仏は無常・苦・空・不浄を説かない。
これはどういうことか?つまり、諸仏の国土において、法とは次のようなものなのだ。

他の世界の諸々の如来は菩薩のためにこのような説法をする。『何と珍しい難行なのか。釈迦牟尼世尊は五濁の世界に出現し、苦悩する衆生のために様々な方便をなし、大法鼓経を説くぞ。だから良き修行者たちよ、その教えを学ぶべきだ。』と。

このように言われた菩薩たちは私に会いたい、恭しく敬って礼拝したいと思い、この集会にやってきたのだ。彼らは菩薩として十住の段階を修めるだろう。
このようなわけで、大法鼓経を聞くチャンスを得るのは実に難しいことなのだ。
だからこそ、あらゆる世界にいる菩薩たちの大集団が教えを聞こうとして集まってきたのだ。」

アーナンダ「素晴らしい、素晴らしいです!一切にとっての善が来る(一切善来)のですね!彼らすべては得がたきこの経の教えを頂けるのですね。」

仏「このように深い教えの経は、誰にとっても共通なものではないのだ。だから、一切善来というようなことを言うべきではない。」

アーナンダ「なぜ彼らにとっての一切善来と言えないのですか?」

仏「この経典は、如来の秘密の法蔵であり、極めて深くて精妙で、理解することも信じることも難しいものなのだ。だから、アーナンダよ、『一切善来』というようなことを言うべきではないのだよ。」

アーナンダ「プラセーナジット王が戦に臨んだときに戦の合図として大きな太鼓を打ち、その音を聞いて恐れた者たちが皆、手に持っていた矢を落としてしまいました。そのようなことでしょうか?」

仏「プラセーナジット王が太鼓を打って戦いに出た時、それを聞いたすべての者たちは太鼓の音を聞いて勇気が湧いてこなかった。
それどころか、怯えてしまう弱い者は、太鼓の音を聞いて恐怖の思いを抱き、ある者は死んでしまい、またある者は死にかけたのだ。
アーナンダよ!それと同じように、大法鼓経の名を聞いても二乗の人は恐れて、その法門を信じない。
だから、アーナンダよ!プラセーナジット王が戦闘の時に大きな太鼓を打つように、この大法鼓は諸仏の秘密であり、仏が世に出る時に説かれる経典なのだ。」

<次回に続く!>


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