ドラマ「デフ·ヴォイス」のビハインド番組を見て

NHKで以前放送されたドラマ「デフ·ヴォイス」のビハインドの再放送を深夜に見た。
「デフ·ヴォイス」はリアルタイムで視聴したが、その後、『手話版』の放送があり、それを放送する際に、ビハインドが前もって放送されたようだ。

難聴者の両親から生まれた健聴者の子供をCODA(コーダ)という。聴こえるがゆえに、周囲から、あるいは両親から、それぞれへの通訳のようなものを求められて生きていくことが多い。
元々のドラマでは主人公のCODAとしての葛藤や、ろう者が受けてきた差別や誤解などについても映像化されていた。

ビハインドでは、ドラマを撮影するにあたって、ろうの役を実際のろう者が演じることの色んな壁や、難聴·健聴それぞれの側の俳優の葛藤が紹介、説明されて、映像になっていた。そしてその両者の架け橋ともなる、「ろう者俳優コーディネーター」や、「手話指導の方」、「文字での台本を手話での台本(映像)として作成する手話脚本家(?)」の方の紹介などもあった。

演出家やドラマ作成に携わる人々の撮影中の様子が丁寧に掬い取られ、解説されていた。

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ドラマのビハインドであるので、番組ではそこまで触れられていなかったが、一言で難聴と言っても、グラデーションがあり、ほとんど聞こえない場合や、音の高さによっては聴こえる程度があったり、人工内耳をいれることで聴こえる人も、人工内耳を入れても上手く音が入らない人など、ろう者と言っても様々だ。

聞こえないことと、話せないことはイコールではないから、自分の声が聞こえないなりに自分で発声して話そうとすることで、自分の音のボリュームがよくわからず、大きな声を出す人もいる。

その場合、手話だけで話すなら静かな環境で目立つことはないが、声を大きく出すことで存在を周囲に知らせる状態になっていることもある。
難聴者本人だけでなく、隣にいる子供や兄弟(一般的に、きょうだい児、と言われることもある)が、そういった周りの目を気にする年頃の場合、そういった視線も気になることもあるように思う。そういったことを気にする自分への葛藤や、気持ちの澱などと折り合いをつけながら生きていくことの、生きづらさがCODAやきょうだい児にはあるようにも思う。

健聴者だけの家族であっても、性格や考え方の違いで合うとか合わないとかはある。難聴者の家族であってもそれは同じだろう。同じ価値観や考え方かどうかは、同じ家族ということでは決まらない。

ドラマでもCODAの「弟は聴こえるんだから、そういう役割(通訳)を果たすのは当たり前」(に近い言葉だったと思う)と話す兄の科白がある。
それを聞いた弟(主人公)の表情が、その一言に100%同意できないこと、端的にそれを物語っている。

一般的にも手話を理解しない私達は、難聴の方と話す時に、隣にその方の家族がいれば、言葉の仲介を無意識にお願いしてしまっている。

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難聴者のきょうだい児である知人の事を考えていた。
周囲からの当たり前の期待。それを日常、常に求められる状態。


スマホが進化したことによっても、難聴者でも若い世代と上の世代とでは関わり合い方に違う点も出てきている気もする。
アプリなどを使い、1対1で会話できる方法をまず考える。

そんなことを思った。


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