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何もないこと、積み上げること

暖かい朝。
羽織う数が違うと、「こんなに軽いんだ」とうれしい気持ちになりました。
正直、春の訪れに対してどうのこうのって、今まであまりなかったと思います。
春のことが好きだとか嫌いだとか、そういうことがなくて、季節は巡るもの。
それが、境目を見つけた気になると、うれしくなったりするものなのでしょうかね。

軽さと聞いて思い出す小説は、「存在の耐えられない軽さ」です。
この小説のことnoteに書いたよな、と振り返ってみると「あたまのことば、こころのことば」という記事が出てきました。
そこにあったのは、また別の小説の言葉でした。

いま目の前にあるハッピーな事柄でさえ躊躇しなければならないほど駄目になってしまった自分が惨めに思え、それまで溜めてしまっていた様々なことが一気に吹き出してしまったのだ。

夏みかんの午後ー「砂浜とボート」

そして、今日読んだ小説にも繋がります。

「愛しいキャンドル坊やったら、わたしが喜ばせてあげようとしてるのに、それが受けいれられなくて逃げてしまうのだもの。そんなあなたが、どうやってわたしをたくさん喜ばせられるというの?」

哀れなるものたち

本を読むことは自由に繋がっていると思っています。
本を読むほど、自由になっていく。
そう感じているけれど、それはどういうことなのでしょうか。
本から新しい言葉、視点、世界をもらう。
すると、それを受け取った僕は軽くなるでしょうか、重くなるのでしょうか。
何かを受け取るということは重くなる気もしますが、自分の中だけで受け取っているわけではない気もします。
本の世界はただそこにあって、それを「認識すること」が「本から何かを受け取る」ということなのかもしれません。
自分の外側に、実際に行くかは分からないスペースのことが見えてくる。
そのスペースへ自分のあたまだけ、こころだけが飛び立てる。
自分から飛び立った分だけ軽くなる気もします。

軽さとは、積み上げることと共存できるのでしょうか。
何も持っていない方が軽くて、何かを持っている方が積み上げたことの証になるのだとしたら。

迷ってしまうようなことを書いてしまいましたね。
でも、僕は共存できると思います。
きっと、積み上げることも本を読むことと似ていて、「自分の中だけに積み上がるものではない」のではないでしょうか。
積み上がるというと、上へ上へと高さが上がるイメージかもしれませんが、「平面に積み上がる」というのもあると思います。
日本語がおかしいかもしれませんね笑
この知識の上にあの知識がある、のような積み上がり方があるように、
この知識と離れたところにある(と思っていた)あっちの知識が繋がる、そんなことも「積み上がっている」と言っていいのではないでしょうか。
自分の中のスペース、外のスペースのことを見えるようにしておく。
そのスペースたちを行ったり来たり、あるスペースのものを使っては戻し。
それは軽やかな営みではないでしょうか。

*

Rinfinity~食にたずさわる人の生き方~
料理人や農業従事者の方へのインタビュー記事を発信しています。
第7弾、名古屋の南インド食堂「チェケレ」の中島憲二さん・中島加珠子さんのインタビューが公開中です!!


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