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【全文公開】違和感を無視しないでいようと思った日(2024/4/16)

行きの駅のホームで、ベンチが新しくなっていることに気づく。
いつ変わったんだろう。
帰り、トイレに入ってみると、鏡の前にカミソリが置かれていた。
誰かがここでひげを剃ったのかな。
この駅を使って通勤することも、あと10回もない。

今までの別れのことを思い出してみることなんて、ほとんどない。
それは、別れの傷が癒えたわけではなく、ただ思い出されないというだけ。
傷に触れることになるから思い出さないようにしているのかもしれないね。

朝イチでメールを確認していたら、面白い言葉を見つけた。
「いつも当社がお世話になっています。」
日本語に珍しく、ちゃんと主語が入っている。
そして、会社と自己がしっかり分離されているようでもある。
好き。

乗り換えの駅で、「バイバイ」とハイタッチする制服を着た学生を見た。
その無邪気さが弾ける姿に絵顔になれたよ。
今日は一日どんよりとした天気だけど、地下鉄の中は暑苦しい。

最近、夜に言葉をメモしたくなる時がある。
今日残っていたのは、「中立であること」という言葉。
中立であろうとする場面はあるかもしれない。
でも、それは実際には実現されることのない立場。
自分の視点を完全に捨て去ることはできないから。
それでも自分は中立だ、と言い切ることができてしまうのは危険だ。
「やんわりした期待」も同じ。
そんなの全くないフリをした振る舞いを見ると、気持ち悪いと感じる。

帰って、プライベートのメールフォルダを見ると『「共同親権」を可能とする民法改正案、衆院本会議で可決』のニュースが入っていた。
残念な気持ちになる。
すごく詳しく知っているわけではない。
でも、この案のメリットって何なんだろう。
調べてみると、

離婚時の親権争いの激化を防げる
離婚後も両親で協力して子育てできる
面会交流・養育費の支払いがスムーズに行われやすい

と出てきた。

「激化」とは?
この案が通ることとその抑制にどれほどの相関があるのだろう?
激化の抑制と引き換えになるものについては?
詳しいデータは分からないけれど、現状で(共同親権という民法がなくとも)「離婚後も両親で協力して子育てできる」人々はいるのでは?
「面会交流・養育費の支払い」も然り。
共同親権が民法として規定されることでしか子と接せられない(接せたいと思われていない)人のための案なのでは?
養育費に関しては、この案との相関がイメージできない。
(共同親権者だから養育費を払うのだろうか?)

共同親権推進派のポストも見てみた。
「実子誘拐」というワードを発見。
本当に「誘拐」のように恐ろしいことが起こっている可能性がゼロだとは言い切れない。
でも、(元)パートナーが「子供と一緒に、離れたい」という気持ちを持っている(自分はそう思われている)ことへの想像力・内省力が乏しいと感じる。
共同親権反対派に騙されるなというタグや、「共同親権反対派が声を荒げる理由」みたいなポストを見たけど、個人的には推進派の方が荒々しく見えた。

野田聖子氏が、「選択的夫婦別姓の導入は30年間放置されているのに、にわかに起きた共同親権の議論はどんどん進む。立法府の一員として違和感を覚える」と。
そうだな、と思う。

「違うことは違うと言わないといけない」
今日、会話の中で登場した言葉。
本当にそう。
にわかに起きたものがどこへ進んでしまうのか。
色んな意見があればいい。
それは、NOという意見、少数派の意見、権力がない人の意見をなかったことにするのではない、ということ。
それらを無視して決めることに公正さはなく、政治でもないと思う。
少数だとしても、その意見がある。
そうやって議論がしたい。
公正であろうとすることや民主主義とは、プロセスのことなのだから。

違和感を無視しない。
「違うことは違う」と言おう。

勉強する。

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