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「ネガティブなこと」を口に出すこと

「こと」が二度出てくる一文が好きです。
今日読んだ本の中にもありました。

目的を言葉で限定することがきわめて難しいこと。

社交する人間

「違うこと」をしないこと。
「前提があること」を忘れること。
「ネガティブなこと」を口に出すこと。

ネガティブは、どうしたって避けられがちだと思います。
でも、そこからはじまるものもある気がします。

「あらゆる差別を容認しません」
これに近しい言葉をどこかでみたり聞いたりしたことがある人も多いのではないでしょうか。
この言葉にふれたとき、皆さんはどんな気持ちになりますか。

差別はいけません。
容認されることではないです。
では、その差別とは何なのでしょうか。
これは差別、あれは差別じゃない。
誰が、何でジャッジするのでしょうか。
きっと、誰かが、何かによってジャッジした結果、これは差別、あれは差別じゃない、となっているのでしょう。
しかし、差別とは、「これは差別になるからしてはいけない」とか「あれは差別には当たらないからOK」と、誰にでも分かるようなはっきりした線を引けるものなのでしょうか。

差別がどうしていけないか。
イヤな気持ちになったり、それによって人権や機会、利益などが侵されるからだと思います。
イヤな気持ちにさせられたい人も、人権や機会、利益などを侵されたい人もいないはずです。
では、どのように差別を無くしていくのか。

「地下鉄で隣に黒人が座ったら」の帯には、

マイクロアグレッションとは、マイノリティの人々を無自覚に傷つけること。

とありました。
差別をした側は、そのことに「無自覚」な場合があります。
無自覚であれば容認されるわけではありません。
どんなことが差別になり得るのかを知っていくのと同時に、「傷つけたことへの自覚」が必要なのではないでしょうか。
「あなたの言葉に傷つきました」
「それは差別に基づいていて、フェアなやり方ではないのでは。」
このように「ネガティブなことを口にすること」が、「傷つけたことへの自覚」に繋がるように思います。

「あなたの言葉に傷つきました」と口にするのは、ものすごく勇気のいることです。
差別を受けた側が勇気を振り絞ることだけで差別を無くそうとするのは、違います。
これは、差別を無くしていくための一つの方法です。

「あらゆる差別を容認しません」
僕はこの言葉、結構鋭いな、と感じてしまいます。
差別に反対している人は絶対に差別をしない、とは言い切れないと思います。
差別は容認されることではありません。
差別を完全に無くすのは、簡単なことではないかもしれません。
しかし、僕たちは今、差別を無くしていくプロセスの中にいるのだと思うし、無くしていく方法はきっと一つではないはずです。

もちろん、差別を理解することは決して簡単なことではありません。
でも、まずは苦しい経験をしたという人の気持ちに寄り添い、理解するよう努めることから始められませんか?

「地下鉄で隣に黒人が座ったら」

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