我が「トーマの心臓」譚(連載No.8)-純愛信仰と信仰弾圧の中で起きた『殉教』(トートロジーと循環論証篇)
「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))を操る特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め弾圧することで暴走した「色情〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」となる。
「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」は「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」と同じである。
では特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)とは何か?
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め弾圧することで「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」が形成するバベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)の建造をすることである。
何故「人」自らが「技」を得ることが特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)であり「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」だとなるのか?
それは「人類の進化」と言えないのか?
最高善の神とは「イマーゴ(真善美の回復)」であり、「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」が形成するイマーゴ(真善美の回復)」はありえない。
「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」が形成する「トートロジーと循環論証」で錬成された「屁理屈(前衛詐欺)」でしかないのだ。
その決定的差異は「信仰」と「デマゴーグ」の在り方となる。
イマーゴ(真善美の回復)の信仰がないものはデマゴーグでしかないからだ。
それは「理屈」を「錬金術」で錬成することで形成された「屁理屈(前衛詐欺)」によって「説得力」を捏造するのと同じである。
「屁理屈(前衛詐欺)」は「猿芸(脅し透かし)」であり、「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは「神芸(福音)」となる。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」にはイマーゴ(真善美の回復)はあるからだ。
それを弾圧した「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」にイマーゴ(真善美の回復)があるわけはない。
「カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を完全弾圧したバベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)であり特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」でしかない。
では「人芸」とは何か?
それは「文学賞」とも言える。
高橋源一郎先生は「トートロジーと循環論証」によって小説を書き「高名な文学賞」を受賞された。
しかし彼には「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」はない。
彼は屁理屈屋(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)なのだ。
「屁理屈(脅し透かし)」を「錬金術」で錬成することを文学(ポストモダン文学)だと主張された。
しかしそれは完全な「文学特殊詐欺事件(文学特権階級事件〈文学権威付け事件〉)」だった。
「理屈」とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の受肉によっている。
高橋源一郎先生はそれを「見せ掛けの理屈」の「錬金術」である「屁理屈(前衛詐欺)」に貶めたのだ。
高橋源一郎先生には「文学」に対する「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」はなかったのだ。
彼には文学信仰はなくプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉でしかない。
彼は文学者ではなくプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉でありカルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)であるのだ!
ヨハネの福音書 冒頭
「循環論証」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を完全弾圧する「神と聖書の論証」であり、それは「最強で最も陳腐な屁理屈(前衛詐欺)」である。〈それは「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の「トートロジーと循環論証」で形成される。〉
循環論証
「トートロジーと循環論証」は「神と聖書のパラドックス」と言われる特殊詐欺(特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)である。
ここに其の詐術の仕組みが記されている。
これが「ポストモダンの理屈」でありそしてそれが屁理屈(前衛詐欺)である証明となる。
「トートロジーと循環論証」の存在を「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としてあった「モダン」の弾圧とその次に来る「ポストモダン文学」として据えた。
それは文学賞選考委員の文学特殊詐術であった。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」である筈の純文学の転覆(文学信仰に対する敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))であったのです。
特に「三島由紀夫賞選考委員会」は「トートロジーと循環論証」を「文学」とする「最悪事件〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」を起こしました。
これは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め弾圧するために「トートロジーと循環論証」を使用した「ポストモダンとしての前衛文学詐称事件」だった。
「ポストモダンとしての前衛文学詐称」とは「トートロジーと循環論証」の組み合わせにより「見せ掛けの理屈」を形成する特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)であり「ネオ・ナチズム文学」でありました。
何故「ネオ・ナチズム文学」であるのか?
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対する敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を「文学」とするものだからです。
「ネオ・ナチズム文学」は「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の儀式としてあり「最も劣等な文学作品」となります。
「最も劣等な文学作品」が「名誉ある文学賞」を受賞することは「最強の愚民政策」の効果を発揮します。
愚民しか作家になれませんから・・・・
doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa-神と聖書を冒涜する〈循環論証〉
トートロジー(同語反復)
循環論証は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に対する「敵対感覚〈原罪〉」の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)として存在する。
それは堕天使ルシフェルによる最高善の神に対する敵対(〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉)である。
特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)は「愚民政策により騙し抜くこと」を示している。
※特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)は「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する〈立ち位置の印象操作〉」を示している。
人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する「立ち位置の印象操作」はアダルトビデオ女優が有名であるだろう。
これは「演技論」で言うことができる。
人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する「立ち位置の印象操作」はアダルトビデオ女優の肉体の描写を示している。
それは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の演技ではない。
「他者の意識」に対するストーキングとしてあり得る「立ち位置の印象操作」である。
「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する〈立ち位置の印象操作〉」が「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」である。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」からある「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」は「演技の在り方」である。
ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)の確立は演技の核心である。
文学特殊詐欺事件(文学特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)とは「文学賞」に関わる「文学賞選考委員会」及び「文学賞受賞者」を超感覚(一方的自由の陰険)とする「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」のことであるのだ。
高橋源一郎先生の直筆サイン(1999年3月14日)
高橋源一郎先生の「大石宗磨様宛の自筆サイン」
新宿紀伊国屋書店「あだると」サイン会にて
私は高橋源一郎を直に確認するために「新宿紀伊国屋書店(前川國男設計)」まで出向いた。
彼の目の色と態度、そして彼の直筆のサインが柄谷行人と違って「偶像崇拝と呪術崇拝の原始的段階に近い在り方〈一方的自由の陰険〉」であり「アイドルタレント並みの意識の存在」であることを認めた。
ここに示されたサインをご覧いただければご理解いただけるだろう。
後に示す柄谷行人のサインは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のサイン」であり両者を比較するとその違いが理解しやすいだろう。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に対する「貶めと弾圧」で形成される「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))を操る特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」の在り方は「闇の中でも光を失わないイエス・キリストの存在」を指し示すこととなるだろう。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に拠っている。
それは「時の徴」としての「カトリック感覚(Holy Communion)の歴史」であり「聖書」となる。
しかし「聖書」を貶め弾圧することで「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する黒魔術」を「文学」と する堕天使ルシフェルが「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」を扇動し暴走する。
それは最高善の神へ汚い唾(敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)の呪詛)を吐き敵対する人の存在を示している。そのような在り方は悪魔崇拝(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であって悪魔主義(Holy Communion)ではない。
高橋源一郎先生は故津島佑子先生の推薦により後に「谷崎潤一郎賞」を受賞された。
谷崎潤一郎とは悪魔主義(Holy Communion)の作家と言われていたのだ。
しかし高橋源一郎先生は悪魔主義(Holy Communion)だろうか?
高橋源一郎先生を悪魔崇拝(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の作家であると見做すけれど決して悪魔主義(Holy Communion)の作家ではないと私は思っている。
それは高橋源一郎先生の作品には結局カトリックロゴス感覚(Holy Communion)が全くなくレトリック(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)だけであることから判断される。
「敵対感覚〈原罪〉」の作品であることは明白であり救済(Holy Communion)のない作品なのだ。
レトリック(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の「トートロジーと循環論証」で構成された「敵対感覚〈原罪〉」だけの「黒ミサ賛美作品」である。
それは「悪魔主義」と違って「黒ミサ賛美」を行っているだけなのだ。
「黒ミサ賛美」と「悪魔主義(Holy Communion)」とを比較すれば似て非なるものと指摘する必要があるだろう。
それは「批評家高橋源一郎」と「批評家柄谷行人」を比較吟味して両者の在り方が似て非なるものだと指摘することと同じである。
高橋源一郎先生の谷崎潤一郎賞受賞のデータ
悪魔主義/谷崎潤一郎
高橋源一郎先生のあり方は「ネオ・ナチズム文学としての扇動文学の正体」と言えるだろう。
特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の作品は「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」でしかない。
そして「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する黒魔術」は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の作品である。
特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する黒魔術」は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の書」である。
つづく
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