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光を閉ざしたアトリエ(4)

平野遼は1927年、大分県に生まれた。

高等小学校卒業後、13歳で徴用令により若松造船所で働く。寮生活では時折出勤時の隊列を離れ、自室に戻って終日絵を描いていた。

1944年(17歳)野砲通信兵として入隊、敗戦で除隊。画家を志し、小倉市魚町にあった肖像画塾に住み込む。

1948年(21歳)福岡県遠賀郡芦屋町の米軍基地内のライブラリーにポスター描きとして就職。翌年上京し、第13回新制作派展に蝋画『やまびこ』を出品、初入選。図書取次店などで働くが食に困り、九州に戻る。

小倉のPXに出展していた水野古美術店の水野茂氏次女清子を知り、再度上京の際には時々彼女の仕送りを受けた。

1951年(24歳)から自由美術家協会に毎年出品、1953年に出品の『白い家』『兄弟』の2点で優秀作家賞を受賞する。1954年に清子と結婚。小倉に居を構え、終生そこを離れず制作することになる。

平野が清子夫人と出会ったのは運命だっと言えるだろう。人との密接な関係性を排斥すれば、自ずと社会との関わりは絶たれ、その絵画はあくまで個人的なもの、言ってしまえば自己満足にしかなり得ない。無頼で寡黙な画家と社会を結び付けていたのは、清子夫人という存在だったのだ。

結婚前の平野は東京で似顔絵描きをして暮らしていたが、生活はひどく苦しかった。子供の頃からろくに食べていない体は、当然基礎体力も不足していた。時々高熱を出しては薬も食べ物も買えずに床に伏す日々を送った。夫人のところに彼の友人から「高熱を出した。大変でしょうが上京してください」という速達が届いたこともある。だが、彼女は上京よりも送金の方が賢明だと考え、会いには行かなかった。

彼は当時の生活をこう語っている。

──夜の似顔絵描き、東京駅の八重洲口に屋台がずっと並んだところがあって、
そこが第一の稼ぎ場でした。次が神田の駅周辺ね。新宿に行くとヤクザに取り囲まれてぶたれたり背中を蹴り上げられたりねえ……。私はまず、カストリを飲むんです。一杯しか飲めないから、胡椒なんか入れて効き目を三倍にして飲んで、その勢いで飲み屋に入って行って描くんです。イーゼル立てて待ってたって商売できないですよ。店に入り込んで行って無理やり描いて客に見せると、気に入った人は「おお、いいじゃないか、まあ一杯飲めや」と百円札をくれるんです── 

平野はまったく人と関わりを持たずにいたわけではない。東京時代には詩や文学論を闘わす友人が何人かいたという。またアルコールが入ると、気分よく愉快に話すたちだった。夫人によれば、男性は彼を「強面で怖い」と避けたが、女性には「先生は優しい」と人気があった。夫を亡くした画家が「苦しくて描けない」と嘆くと、平野がぽつりと「哀しい時ほど描きなさい」と言い、その言葉に励まされて仕事を再開した女性もいるという。彼は孤独や哀しみを内包した上で、真の優しさを知っている人だった。

また夫妻は生涯、子供を持たなかった。「明日どうなるかわからんような困難な時代に子供を作ってどうするのか」というのが平野の弁で、事実、彼は作らない処置をした。

「子供を作らないと決めたのは結婚してすぐです。何しろ私の給料が1万円なんですよ。結婚してすぐ住んだ4畳半の部屋代が2,500円。あと7,500円で生活しなくちゃならない。ミルク代と絵具代だと、いくら考えてもミルク代を諦めるしかないんですよね」

しかし夫人のその言葉に悲壮感はなかった。大坊が「でも、絵が子供みたいなものですよね」と言うと、パッと顔を輝かせて「そうなの!」と応えた。

「平野は額縁道楽って言うんですか、もちろん生活が豊かになってからですけど、完成した絵を額縁に入れるのが楽しみなんですよ。それこそ子供の洋服を着せ替えるように、額に入れたり、入れ替えたりするのが好きだったんですよね……」

夫人はそう言うと、瞳を潤ませた。そして「一服、お茶をしましょうね」と、支度のためにアトリエを出ていった。

撮影:阿部稔哉


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