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フットボール×近代西洋音楽 ~新しいフットボールとの関わり~

大学の授業で音楽の歴史みたいなことを勉強しました。すると、音楽史とサッカーには似通ったところがあると感じました。具体的にどこが似ているのか?また、その理由をお話しします。

・秩序と即興の共存

結論、サッカーと音楽では「秩序と即興の共存」という共通点を感じました。

・近代西洋音楽の特徴

ここで話題にする「近代西洋音楽」というジャンルについていくつかの特徴があるので予備知識としてご紹介します。

それは、楽譜の発明と、楽譜通りに演奏するための楽器の開発です。
楽譜は、西洋の音楽に特有のものらしいです。教授曰く、「インドやネパールの民族音楽に楽譜はない。むしろ楽譜があるのは、西洋音楽だけ。」

この特徴は、「再現性の高さ」と解釈できます。つまり、楽譜と決まった音が出せる楽器があれば、誰でもどこでも、同じ音楽をつくれるという事です。

・再現性と言えば…

サッカーの戦術について語られるとき往々にして再現性の高さが求められるように思います。言ってしまえば、戦術とは、楽譜のようなものです

極論、例えば、「ポジショナルプレー」は、適切なポジション取りをあらかじめ指示し、それを実行する戦術理解度と運動能力さえあれば、だれでもプレーにに参加することはできます。

また、戦術解説が増えているのも、戦術そのものが論理的に組み立てられており、体系的に説明することが可能だからであり、すなわち、解説を聞いている側は、聞いて理解できる=解説者と同じ景色を見られるという点で、再現性が高いという事がいえるでしょう。

・近代西洋音楽の合理性と飽き

再び音楽に話を戻すと、近代西洋音楽は楽譜を発明したという点で現代の音楽に多大な功績をもたらしました。

しかし、一方で楽譜が音楽をつまらなくしているという評価もあるようです。曰く、楽譜によって決められた表現しかできなくなったとか。

そこで我々、音楽の消費者は、楽譜にとらわれていない民族音楽(レゲエやヒップホップetc)などに価値を見出し始めたのです。

・戦術の限界から

この現象をサッカーに置き換えても同じような現象が指摘できます。
どれだけ優れた楽譜をかいても(=戦術を持っても)得点できないチームがあります。勝てない試合があります。戦術の打ち合いだけでは埒が明かない状況とも言えます。

そこで花開くのが、システマティックな楽譜に縛られない、プレーヤーです。あえてセオリーから外れたプレーをすることで、相手の意表を突きゲームに違いを生み出せる選手です。個人的にはエジル選手はまさにその代表格だと思います。

・秩序と即興のはざまで、

戦術だけ、楽譜だけでは限界が来ます。しかし、チーム全員がエジルだったらどうでしょうか?世に出回る音楽がレゲエ音楽だけだったらどうでしょうか?
おそらく、そのチームは勝てないし、レゲエだけでは面白みに欠けるでしょう。
秩序だけ、即興だけでは成り立たないのは、どうやらサッカーも音楽も同じようなものです。

・対立を乗り越えて

最後に、この秩序と即興という難題に対するサッカー界から暫定解をご紹介します。
欧州CLで最多優勝を誇る、レアル・マドリードでは見事に秩序と即興が共存しています。
それは、簡単にいうと、選手全員が秩序だったプレーと即興的なプレーの両方をこなせるのです。

レアル・マドリードでは、昔からスター選手を集めてきました。彼らの「エゴイズム」と「チームの勝利」という究極の兼ね合いの中で生まれたのは「勝つためのエゴは許されるが、負けるのなら許されない」という至極シンプルな発想でした。

果たして音楽でレアル・マドリードのような究極の融合は見られるのか?興味深いと感じました。


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