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地面

現在もイスラエルでは、戦闘が行われている。それは、ある意味で宗教戦争の側面も存在しています。
旧約聖書の中で神がユダヤの民に約束の地 カナンを与えたとあります。その土地がエルサレムに当たります。さらにその場所は、イエス・キリスト(もともとユダヤ人)が教えを述べ、処刑、埋葬、復活したとされる場所であり、イスラム教の教祖ムハンマドが一夜のうちに昇天する旅を体験したとされる場所でもあります。3宗教の聖地というわけです。
その土地をめぐっては、十字軍が起こったりもしています。

聖地という考え方は、仏教にもあります。お釈迦さ誕生の地、ルンビニ、悟りを開いた地:ブッダガヤ、初めて説法をした地:サールナート、最期を迎えた地クシナガラの四大聖地です。

しかし、この土地を絶対視する考えは、ブッダの教えにはありません。弟子が亡くなる寸前のブッダに田舎でなくなるべきでないと述べますが、否定しています。また後に生まれた大乗仏教でも土地を重視する考えはしていません。

釈迦がなくなったのち、荼毘に付され、遺骨は八分割されます。そのおり遺骨獲得のため争いが起こったと仏典にあります。
聖人である釈迦の骨、墓をお参りすると功徳がある。よき業を積むことで来世よき場所に生まれると考えられていたからです。

しかし、後世つくられた法華経神力品では、「若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に皆塔を起てて供養すべし。」
とあります。骨に執着するのではなく、土地に執着するのではなく、「皆塔を起てて供養すべし」行為によって悟りを得ると考えているのです。

もちろん私も巡礼はしたことがあります。しかし、土地にとらわれ、紛争することは釈迦の精神には反してはいます。おそらく神を立てない仏教では、約束の地がない。我々の心のあり方が問われているからでしょう。

だから仏教が優れているとは言いません。あくまでそういう思考であり、かつ現代の紛争も宗教だけの問題でもありません。一側面としてこういう部分もあるかな?と考えたという話です。






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