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仏教と資本主義

とある方の投稿から
『仏教と資本主義 (新潮新書)』

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を見直すことになった。
かなりダイジェストに内容を書くと以下のようになるかと思う。
行基―僧院から出でて働く事を肯定 「菩薩になるための行と信じてよく働く」(57頁)
親鸞―弥陀の敬虔な帰依、善行往生を否定し、結婚を肯定したことはプロテスタントに似ている
法然―既存宗教の権威を否定、専修念仏を述べる。僧の妻帯も否定していない。マルティン・ルターに近い。
鈴木正三―自分の職業を天道の召命に応える「天職」と考え、ひたすら念仏を称え、禁欲的労働をせよと述べる。
石門心学―商業に利益は、武士の法録に等しく、正当な利を得るのが商人の道 商業を悪と見ない。

世俗的生業を悪とせずに、肯定する。僧院すなわち出家主義でないことを重視している。
ただ、これらの研究では、浄土教、浄土真宗を中心に見ているが、日蓮の思想を同様に、資生産業は仏法に違背せずと考えていて、室町時代 京都ではかなり町衆に法華仏教が流布されていたとされている。
『戦国仏教―中世社会と日蓮宗 (中公新書) 』

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には

この時期の京の日蓮宗寺院は、金融業として祠堂銭の貸し出しを広く行っていたが、慶長一〇年(一六〇五)、妙覚寺の日奥は、「来年から自分の持ち分の銀八目以外は、日蓮聖人へ進上せよ。(それをもとでに)人に貸すならば一割の利子を取り聖人へ戻すように」(『万代亀鏡録』)と定めている。つまり当時は日蓮の名のもとに祠堂銭が集められ、金融に廻され、回収されていたのである。
日蓮自身も、「金と申すもの国主も財とし、民も財とす。たとへば米のごとし、一切衆生のいのちなり。ぜに又かくのごとし」(『上野殿御返事』)と、金銭のもつ魅力をなかば肯定しているが、室町期の京でそれが花を開いていたのである。(149頁)

金融業への肯定という部分をみると、浄土教系だけが資本主義の発芽とも言い難い。そこも含めて、研究し直す部分も必要ではないかと考えられる。


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