寄生と規制

ウイルスとは、生物なのか?という問題にまっすぐに向き合ったのが、福岡伸一『生物と無生物のあいだ』だが…

ウイルスは生物と無生物のをたゆたう何者かである。ウイルスが細胞に取りついてそのシステムを乗っ取り、自らを増やす有り様相は、さながら寄生虫とまったくかわるところがない。(37頁)


実は我々、寺院、僧侶もウイルスの親戚かもしれない。佐々木閑『「律」に学ぶ生き方の智慧」で

出家した僧侶というものは一切の仕事を離れて修行に打ち込んでいるため、生きる術がありません。それを皆さんの力で支えていただきたい。食品でも日用品でも、あるいはお寺の建物、設備備品にいたるまで、どんなものでもいいのです。(124頁)
仏教は「働かずに生きていく道」を模索し、その結果として、世間で働いている人たちのおこぼれをもらって暮らす乞食生活を採用した。このことは何度も言った。そして、必要な布施をもらう絶対条件として、「自分たちの生き方の理念を皆に知ってもらい。お布施に値する人間であることを納得してもらはねばならない」のである。(174頁)

ここで述べているのは僧侶というのは、社会に寄生しているという事実をしめしているのではないだろうか?それ故に「お布施に値する人間であることを納得してもら」うことが必要となる。この納得してもらうには、立ち居振る舞いや言葉の使い方なども含まれる。すなわち寄生するために「規制する」「自律する」ことが必要になった、それが釈迦の仏教での「律」の成立の原因であろう。

規制と律

佐々木閑『日々是修行』では

律で定められた何百項目もの細かい規律を正しく守り、どこから見ても清廉で、「おお、なんと立派な」と皆が感心する立ち居振る舞いで毎日を暮らす。それが、自分の意思表明となる。「律を守る」ことが、「実直な思いで生きていること」の、目に見える証しとなるのだ。律は、修行者が誇りをもって社会の中でいきるための、重要な基盤なのである。(129頁)

とある。「律」こそが、「自分の意思表明」であり、自身のよって立つところであるというのである。

日本では

佐々木先生は日本の仏教の現状に関しても述べているが、以下の視点は重要であろう。

日本の寺には固定資産税がかからないが、それは寺というものが、皆の思いを集めて造った公共物だからである。そこに住まわせてもらうというのはありがたいことだ。寺は一種の社宅である。仏道修行という業務をしっかりこなしている僧侶だけに与えられる特典だ。その家賃は「誠実さ」、くれぐれも滞納ないようにお気をつけください。(58頁)

日本の仏教の僧侶は、結婚もするし、世襲化もしているので、釈迦の仏教から言えば、問題がないとは言えない。自分もその件ではコンプレックスがあるし、今後の寺院のあり方を模索する必要はあると思う。しかし、現代の日本仏教の戒律が「誠実さ」だとする先生の意見は重要だと思う。「誠実さ」が現代僧侶の求められている戒しめであり、律(ルール)であるならば、どうしても細目がない分、自覚的であることを求められている。立ち居振る舞いにせよ言葉にせよ・・・結局あるいみ自立、自律の世界であり、品性や教養の世界になる。難しいと思うのは、私だけだろうか?

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