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非合法な散歩・非合法な音楽鑑賞

寒い。寒いよ。こんな日は外に出る気力も失せるというものだ。温暖な日と比べて外出コストが高くつくというのなら、温暖な日と同じ行動を取るだけでは実質的に損をしているのと同義だ。例えば、ふらっと散歩するだけとか。僕はコスパやタイパに重きを置く現代社会人の尖兵として、合理的判断に基づいて本日は一日中家に引き籠ることを決意した。作り置きしたポトフはレンチンによって滋味に満ちた熱を蘇らせ、そのいかにも栄養バランスに優れてそうな味は自堕落な休日の僕をじんわり肯定してくれる。それに、近頃は散歩続きの日々だったから、今日は貯蓄していた日光ポイントを切り崩して凌ぐ日と割り切ろうではないか。

そう、最近は在宅勤務の割合が増えたこともあって、家にいる時間が長くなっていた。そして逆張りオタクの僕は、自然に生活していれば籠りっぱなしになりかねない状況において、だから敢えて外出を繰り返していたのだ。というのは半分冗談だけど、近頃は散歩日和の秋晴れが続いていたこともあり、昼の休憩時間中はほぼ毎日散歩に赴いていた。外回りなるものが存在しないIT業種の人間にとって、日中に陽光を堪能できる機会って存外希少である。本日の気温の落ち込みを受けて、その習慣の継続も危ぶまれようという今日この頃である。

思えば「快適に散歩ができる日」に必要な条件って意外と多い気がする。寒すぎないこと。暑すぎないこと。花粉が舞ってないこと。天気が良好なこと。体調が良い事。仮眠を優先したいくらい疲れていないこと。平日なら、仕事のタスクに余裕があること(休憩時間に散歩して、勤務中に昼食としてBASE BREADを貪るため)。何より、他の雑多な趣味を差し置いてモチベーションが向くこと。

だが、それらの多くを満たしていたとしても、僕は元来散歩が苦手なタチだった。散歩って要は移動である。移動とは手段であり、労力や時間というコストを要する行為だ。人々がごく自然に最短距離の移動経路を検索するのだって、支払うコストは少なければ少ないほど良いからに他ならない。

だというのに、ただ歩くだけの散歩って! 削減すべき移動コストそのものを行動の主目的とするなんて、なんと贅沢で勿体の無いことか。ある場面において最短距離を歩こうとする人間が、また別の場面においては行く宛をも定めず河原や公園をふらふら徘徊する。これは矛盾・ダブルスタンダードだ。SDGsが騒がれる昨今、このような浪費が許されるのだろうか。否だ。散歩なんていう凶行は非合法な行いと言っても過言ではないだろう。



寒い。寒いよ。こんな日は妙に部屋の静けさが際立つというものだ。気温と音響の相関関係って以前何かの記事で読んだ気がするけど、雪が音を吸うみたいな物理的な話だった気もする。どうでもいいね。

僕は音楽を聞くのが結構好きだ。最近ハマってるkawaii future bassに限らず、流行のボカロとか邦ロックとか聞きそびれていた昔の有名曲とか、月に50~100曲くらいは新しく曲を聞いている。TikTokに流れてくる動画の半分は楽曲紹介系で、気になった曲は急いでスマホでスクショ(TikTokの音楽紹介は一曲5秒くらいしか流れないものが多いのだ)してyoutubeを開いて聞き直していたりもする。この導線は我ながらゴミ過ぎると常々思っているが、音楽系のサブスクは歌みた動画にアンテナを張れないので未だ仲良くできずにいる。ボカロなんかは特に、SUBWAYのサンドイッチみたいに、曲とボーカルの好きな組み合わせを自分で探し選ぶ時代です。

で、最近は在宅勤務の割合が増えたこともあって、音楽を聞く時間がめっぽう減ってしまっていた。何のことはない。僕の音楽鑑賞は主に通勤の時間を充てていたのだ。都心の通勤電車は混雑の極みにあり、満足に四肢を動かせなければスマホ操作もままならず、音楽に集中するのが最適解な環境に思われた。一方で在宅時は、音楽鑑賞以外のことができる環境であるから、音楽鑑賞以外のことをやりたいという意識になりがちなのである。

思えば「自宅でじっくりと音楽を聞く」時間をとる機会って結構少ないかもしれない。家事をする時とか、ながら作業のお供にすることが圧倒的に多いのだ。だって、体力が余っているのに、四肢が自由なのに、意識が明瞭で思考能力が残っているのに、運動・読書・料理……他にもやりたくて労力のかかる趣味は幾らでもあるのに、ただ音楽を堪能するだけって! なんと贅沢で勿体のないことか! そのような凶行、最早非合法と言っても過言ではないだろう。コスパ・タイパに呪われてしまった現代人ここに極まれりである。

果たして両者は運命的に導かれ、一つとなった。マイナスとマイナスを掛け合わせればプラスになるように、チームメイトが欠点を補完し合うように、社会という巨大な機構の中で誰しもが役割的に振舞うように、非合法の散歩と非合法の音楽鑑賞は互いの凹凸を合致させ、存在を許し合った。散歩をする名目として音楽を聞く。音楽を聞く名目として散歩をする。しかも本来は外出しないような在宅勤務の昼休憩時間にだ。パーペキである。

なんてね、全部冗談だよ。……などと道化を自称する人間は、だいたい「自覚さえ示しておけば致命的な一線の前では踏み留まれる」なんて信条に固執して、真に歪みつつある己を俯瞰視できないものだ。或いはこうやって散歩しながら音楽を聞きながら心地よく日光を浴びながら寒い日に籠りながら思考していたことをnoteに吐き出して形にすることこそ、僕が己の行動に意義を認めるための儀式なのかもしれない。はじめにnoteの記事を上げた時も、そんな心情だった気がする。

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