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一つのゲームの辞め時がわからない

年末セールでDyson Sphere Programという神ゲーを買って以来ピタリと止まっていたnote更新。流石に宇宙開発が楽しすぎた。文章なんて書いてる場合じゃねえ。謹賀新年!

圧倒的宇宙ロマン。
見えてる巨星や恒星をはじめ、背景で瞬いている星の全てに実際に飛んで行くことができる。
眼下には一つ一つ手づから敷設したコンベアと建造物群。
これは工場全域のほんの一角に過ぎないのだ。


さて、このゲームも今や終盤に差し掛かっている。現在の研究ツリー(ゲーム内目標)の進捗は9.5割程度だ。この研究ツリーとは達成する度に様々なアイテムやシステムといった新要素を解禁してくれるものだが、終着点たる最後の項目に至っては報酬が何も設定されていない。代わりに「任務完了!」とシンプルな一文が添えられている。ゲームクリアを示唆する語と捉えて差し支えないだろう。

そしてふと気付くのである。
まだまだやれること沢山あるが???

                 ◆

「ゲームクリア」は必ずしもゲームの辞め時ではない。
一見すると奇妙にも思えるこの現象は、けれど実際は多くのゲーマーにとって心当たりのある感覚だとも思う。クリア後ダンジョン・後日談編・図鑑コンプ・その他のやり込み要素・データ引継ぎによる二週目……。クリアした後にも遊べる要素を実装しているゲームはとても多い。RPGとしての本編をクリアしたら、対人戦へとゲームジャンルが変わっているなんてケースもあるだろう。ポケモンとかね。

所謂エンドコンテンツと呼ばれるそれらは、あくまでおまけや寄り道という位置付けであり、決して通過必須の項目ではない。逆に言うとインゲームで提示される「クリア」や「エンディング」とは、主要な楽しみはあらかた見せましたよという表明であり、いったんの区切りを示しているに過ぎないケースも多かったりする。無論、これはゲームのジャンルやリプレイ性によっても大きく変わってくるので、十把一絡げに語れるものでもないのだけれど。

こんな要素は今更語るべくもないスーファミ時代からの伝統美みたいな所もあるんだけど、更に言うと最近(言うほど最近ではない)になって、上述の「ゲーム体験はもうちょっとだけ続くんじゃ」状態に拍車をかける要素が出てきているなと感じる。そう、アップデートによる追加要素である。
※無料か有料かはいったん問わないものとする。

ユーザーの口コミが馬鹿にならない販促と化す現代において、アクティブユーザー数を長期間維持することはゲーム開発者にとって大きな課題である……かもしれない。そんな商売戦略的な事情はさておいても、技術的な躍進によりアップデート自体が容易になったという背景は間違いなくあるだろう。ソシャゲ・ネトゲに飽き足らず、インディーズのゲームやコンシューマー向けの大型タイトルまでアプデアプデアプデ……更にはシーズナルイベントまで。今やゲーム購入という行為は、スタンドアロンに完結している作品を入手するものではなく、メーカーが提供するゲームサービスへのアクセス券を得るという感覚にすら思えてくる。

勿論ゲーマー達だってそれらが本当に追加コンテンツなのか、はたまた本編内容を遅れて出しただけなのか、という思惑に関しては敏感である。だから発売段階でボリューム不足を感じさせようものなら「後のアップデートでのフルボリューム化を前提とした未完成品を売ってんじゃねえよ」という皮肉めいた批判があがるのだ。でも「一気に全部実装したらお前ら一瞬で消費しつくすだろ」なんて開発者側の声も幻聴として聞こてくる気がするけど。それに、小分けにした方がトレンドに上がる機会も多かろう。

(余談だが、爆速でユーザー達が攻略情報や最適解を共有し合うネット時代に対する解答の一つが、ランダム性とアドリブ力の要求をシステムの基幹に据えたローグライトというジャンルだと思ってる。最近やたら流行ってるし。)

しかしそんな風潮が常態化しつつある一方で「ゲームはクリアするもの」という意識が大多数に根付いていることもまた事実である(無論、クリアという概念が存在しない対人ゲーム等は除く)。加えて、ゲーム趣味はどんどん一般化していってユーザーの幅は広がり続けている。今やゲーム側のライト層への配慮は必須である。「シナリオクリアするだけならガチ育成は不要」「ストーリー閲覧用の超イージーモードが実装されている」「詰まったりミスを繰り返すとお助けキャラやスキップ機能が表れる」等々、色々聞き覚えがあるだろう。『エルナークの財宝』みたいに販売後13年もクリアされないくらい難しいゲームなんて、太古の時代ならではの伝説だろう。まああれは極端過ぎる例だけど。

少し話が逸れたけど、ゲームクリアがより身近なものになったことは、体感ベースでも頷けることだと思う。ライト層でも達成できる位置にあり、エンドコンテンツや寄り道という余地も多分に残せる。暫く待ってれば新たに実装される追加コンテンツの数々。なればこそゲームクリアとは、「完了」ではなく「一区切り」という意味合いが強くなってくるのではないだろうか。

するとちょっとした問題が発生する。一つのゲームの辞め時が分からなくなるのだ。

世は大コンテンツ飽和時代、誰だって新しく始めたいゲームが常に複数存在しているのは当然のことだろう。だから今遊んでるゲームに飽きた訳じゃなくとも「こんなもんでエエか」と程々の段階で見切りをつけなければならないのだ。上述の理由から、開発側は一つのゲームに長居させようとしてくる向きすらあるというのに。

……これはゲーマー特有の悩み事かもしれない。飽きとは程遠く、まだモチベは全然あるんだけど、ゆーて新作ゲームの方がより楽しそうだから買ってしまう。選択としては合理的だろう。けれどなんだかたまに、勿体なさと節操の無さを感じてしまうことがあるのだ。スイカの中心付近を齧っただけで他の果物に手を出しているような……。ゲームクリアがゲーム終了を示してくれなくなったから、我々は自分自身で都度その判断を下さねばならない。すんなり自然に決断できる時もあれば、辞め時が分からなくなる場合もある。いやでも新しいゲームもやりたいんよな。


ところで、さっきAUTOMATON(ゲーム関連の話題を発信している情報サイト)に興味深い内容の記事が掲載されていた。ゲームに実績/トロフィーは必要か、というものである。その中で「ゲーム外部に設定された実績要素はゲーム体験を歪めるか」という議題もあがっていた。中々面白かったので、よければ閲覧されたし。個人的には実績はあった方が良いと思っています。


ふと気になって、Dyson Sphere Programの自分の実績状況を確認してみた。これはゲーム内ではなく、steamというゲーム販売プラットフォームで確認できるものである。なんと全100項目中、達成したのはたったの22個である! ゲーム内では9割方研究ツリー達成してるのに? もうクリア目前なのに? 

この、インゲームで提示されるクリアという指標と、実績という形で網羅的に具現化したゲーム本来の遊びの幅の乖離こそが、今回言いたかったことの全てを象徴しているのかもしれない。僕はそろそろこのゲームをクリアしてしまうけど、実績を何割くらい埋めたら見切りをつけて辞めることになるだろうか……。

                ◆

そういえば、社会人になったら1時間ゲームしたら疲れるし満足してしまう、みたいな噂をかねがね聞いていた。かくいう僕自身も微かな覚えがあったのだけれど、ガチのマジでおもろいゲームの前では無関係だということを今回改めて実感してしまった。仕事や家事がないタイミングでは何時間もぶっ続けでプレイできてしまうし、寝不足にもなりかけている。それくらいDyson Sphere Programは本当に面白いゲームで、止め時が分からなくなってしまうのだ……なんて。今年もよろしく。

冷静になるんだ。