見出し画像

平安時代の仏教

出演者(染谷将太:空海、阿部寛:安倍仲麻呂役)が好きだったので、内容をよく調べずに見に行ったらハズレだった記憶がある2017年の日中合作映画『空海―KU-KAI― 美しき王妃の謎』は、ネタの多い前後の歴史を省略していたため駄作でした。中国側視点であり、日本の空海というおもしろエピソードがザックリ切り捨てられていました。

陳凱歌監督は巨匠らしいが歴史の探求が欠けている。
エンディングで席を立つ人はよくあるが、映画空海は本編中に退出される方もチラホラ。
平安時代の歴史や空海に詳しい人は観てられない映画だったのかも知れない。

弘法大師と呼ばれる前の空海
『三教指帰(さんごうしいき)』は、空海が延暦16年(797)に著した仏教書です。
「指帰」は「趣旨」や「意向」を意味します。

儒教、道教、仏教の三教を比較して優劣をつけ、空海が仏教を選んだ根拠を、四六駢儷体(しろくべんれいたい)の漢文で明示しています。

空海による『聾瞽指帰』と『三教指帰』は、どちらもほぼ同じ内容で、同年月に作られたとされています。空海が24歳のときに書いたものと伝わる。

『聾瞽指帰』は仏教の教えに暗く、聞く耳を持たない人に教え、指し示すという意味があります。空海は『聾瞽指帰』で出家することを宣言したとされています。
「聾瞽指帰」は、後に序文などを改定して「三教指帰」を完成させました。

『三教指帰』は、空海による宗教的寓意小説に仮託した出家宣言の書で、
日本初の戯曲とされています。

国宝 聾瞽指帰(ろうごしいき)
密教最高の位・阿闍梨である弘法大師空海
平安時代
各縦28.3cm 
2巻
全長 巻上10.11m 巻下11.76m 
紙数 巻上18紙 巻下21紙

国宝指定年月日:1963年7月1日
宗教法人金剛峯寺
国宝・重要文化財(美術品)

空海の師・恵果から受け継がれたとされる彫刻「諸尊仏龕(しょそんぶつがん)」(国宝)や、空海が投げて高野山に届いたと伝わる工芸品「金銅(飛行(ひぎょう))三鈷杵(こんどうさんこしょ)」(国重要文化財)とともに、高野山の三大秘宝とされている。

空海は平安時代、15歳で京に上り、18歳で官吏養成機関の大学に入学。官吏への道を歩んでいたが、一転、出家を志した。反対する周囲に出家理由を表明するため、24歳のときに同書を執筆したといわれている。

解説書や辞典
中国南北朝時代に書かれた辞典をもとに、約1万6000の漢字を部種別に収録したいわゆる漢字辞典や、サンスクリット語にも堪能なことから梵字解説書を編纂。
これらは、後の仏教経典研究を飛躍的に進歩させることとなった。

空海は表現豊かな詩歌が挿入された著書や、漢詩も多く残している。

弘法大師空海自らも曼荼羅を描いた。
また、仏像を彫ることもあったという。
弘法大師空海は経典の写経やその目録を持たせた弟子を全国に派遣して布教活動を行った

庶民のための無料学校 平安時代
当時、学校といえば官吏養成機関である大学や氏族が入る私立学校だったが、弘法大師空海は身分に関係なく庶民に開かれた仏教的総合大学「綜芸種智院」(しゅげいしゅちいん)を828年に創設。
京都の左京九条にある藤原三守の邸宅を敷地として、庶民に無料で密教以外の教養を排斥しない弘法大師空海の理想が反映され、仏教のほか儒教や道教そして書道が教えられた。

「綜芸」とは、あらゆる学問や儒教や仏教、道教などの学芸を綜合するという意味で、さまざまな学問を総合的に学ぶ場を意味します。
「種智」とは、人間が本来持っている仏の知恵のことで、それを育てることが真の教育であると考えられました。

綜芸種智院は、真言密教の思想に基づき、社会に貢献する人材の育成を目的としていました。空海の死後、後継者がなく廃絶。西福寺(浄土宗)の前に石碑が建てられています。

時代は下り、1881年に種智院大学がその伝統を継いで設立されました。

高野山は、平安時代のはじめに弘法大師によって、開かれた真言密教の聖地です。
『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)から金剛峯寺

奥之院・弘法大師御廟

高野山は敵も味方も祀る

御廟橋も37の仏様を表し、裏側には梵字が刻まれている。
合掌 礼

賽銭と双六の関係
中国の盤上遊戯「波羅塞戯」(はらそくぎ)「波羅賽戯」(はらさいぎ)「双六」(そうりく)日本ではすごろく

中国の遊戯盤は、競争ゲームでは、雙六(双陸)、シン・クン・ト(絵双六)、博(六博)、関などがありました。

包囲ゲームでは、囲碁が古い伝統を持っており、配列ゲームでは、ルク・ツ・キ(六目並べ)、格五(五目並べ)、サム・キ(三目並べ)がありました。中国将棋も後漢時代から存在していることが確認されています。

この中で記録上最も古いのは囲碁です。囲碁については「春秋左氏伝」(紀元前548年)に記述があり、高尚な頭脳ゲームとして王侯貴族・知識人に愛好されました。朝鮮においても囲碁の歴史は古く、「百済本記」の紀元475年の記載には王が国を滅ぼすほど碁好きであったとあります。

中国の双六は陸、雙六子、六采とも記され、その起源はインド(天竺)の波羅賽戯(はらさいぎ)にあり、三国時代の魏の曹植が始めたと言われています。

5世紀はじめに漢訳された『涅槃経』に見える「波羅賽戯」が盤双六のことであるという。 「波羅賽」はサンスクリットprāsaka(さいころ)の音訳。 後に北魏では「握槊」(あくさく)と呼ばれ、南朝では「双六・双陸」(そうりく)と呼ばれた。

古代インドの発祥で、日本では奈良時代に中国から伝来したボードゲームですね。
日本では大晦日の新聞見開きで双六が掲載されたりしたため、元日のゲームとなる。

貴族が国の位置を覚えるのに役立てたり、浄土双六では極楽浄土の教えを広めた。
昭和の時代に進化して、賽はルーレットに変わり「人生ゲーム」が定番化しました。

「賽」には、次のような意味があります。
神仏にお礼参りをする、優劣をきそう、 さいころ。
日本の「賽銭」は神社にお参りした時に入れますね
本来の漢字の意味は同じでしたが、中国では「波羅賽戯」の影響で「賽」が
競い合う意味に変化したようです。日本には「双六」の字で入ってきました。

本来「賽」は、神から受けた福に感謝してまつるという意味です。
神仏にお礼参りをする「賽する」は、神仏に礼拝し「て賽銭」をあげるという意味でもあります。
言葉の違い:賽銭をいれるは、箱に入れる。賽銭をあげるは、神に供える意味。
もとは賽物(さいもつ)で、神仏に祈祷する時やお礼参りする時に供える物です。
奈良時代の終わり頃、平安時代から鎌倉時代まで続いた荘園制時代は賽銭ではなく、賽物でした。

「賽」は神仏の恩に報いるという意味
賽願(さいがん)とは、神社仏閣に参詣して「いつも見守っていただき、ありがとうございます」という感謝の心を捧げること。

「賽」の字形は、会意塞(さい)の省文+貝です。塞は呪具の工を多く用いて塡塞し、道路や境界の要所に土神を祀り、守護神とするもので、わが国で「塞(さえ)の神」というのにあたるものです。

「塞の神」は、悪霊の侵入を防ぎ、道路の安全や旅人を守る神です。旅行安全の神
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から逃げ帰ったとき、追いかけてきた黄泉醜女(よもつしこめ)を防ぎ止めるために投げた杖(つえ)からできた神とも言われています。

その神に貝などを供えて報賽することをいうのです。
塞(さい)の省文+貝→「賽」で表す。
「塞の神」は、「道祖神(どうそじん)」「たむけの神」とも呼ばれます。
二神が抱き合う姿で描かれる歓喜天形双体道祖神も

平安時代には、男女 性器を付けた人形や陰陽石、男女 和合像が祀られ、
道祖神や賽の神は縁結びの神とも言われる。
男女和合を司る神様として、大聖歓喜天(聖天)が知られています。

悪い使われ方
賽銭方式とは、少額の献金を多数の企業から集める企業献金の集金手法です。
昭和50年(1975)の政治資金規正法改正で企業献金に上限枠が定められたため
現在も、少額の献金なら報告義務がない抜け道を政治家は維持しています。
企業も見返りを期待して政治献金しているわけです。依怙贔屓や不正の温床

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?