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踊ろう。踊れ。

何もしない日々が人を苦しめる。手足を地につけて生きていたヒトはいつしか手のひらに収まる機械に脳みその活動をほとんど費やすようになった。明日も知らずに食べ物を求めて這いつくばっていた頃に悩む暇などなかった。食べ物を見つけ仲間と喜びを感じ生きて死んでいった。いつしか火を見つけ道具を創り住処を作った。殺した動物たちとどこか繋がりを感じてその毛皮を被りまた火を囲み踊っていた。そんな喜びを今でも感じられるのがトランスミュージックのパーティーだ。科学の生み出した馬鹿でかいスピーカーを山の中やら海や湖のそばに持ち込んで一晩中踊るのだ。ダンスフロアで踊り狂う人々の間を音が羊水のように満たして人と人を繋げる。一言も交わさずして夜通し踊った後、暗闇で顔も見えなかった隣の顔が朝日に照らされて目が合った時に笑いあう。その時に湧いてくる喜びが俺は大好きだ。それは仮初の喜びではあるかもしれない。ある時ある場所で立ち上がった会場でただ踊りに来た人々がその瞬間は一つになる。それは消えゆくものかもしれない。しかし全ては流れ消えゆくものだ。その時に感じたものだけをただ味わっている俺は、単なる快楽主義者でもある。踊ることは根源的に気持ちがいいのだ。セックスもドラッグも気持ちがいいからいい。それでいいのかもしれない。刹那的な快楽だけを求めて生きて虚しくなるのも一つの生き方だ。しかし虚しさは底がない。知らんけど。無気力ウイルスへの治療は唯一、手足を動かすことだ。食べ物を求めて地べたを懸命に動き回ったように、自らの体を動かすことだ。ほんの小さな動きが自分の内にもほんの少しの動きをもたらす。また別の動きが生まれる。新しい動きへの糸口が見えてくる。それを信じている。それ以外は今の俺にはない。こんな出鱈目な文章でも俺の中の何かが動く。それでいい。一秒で人は変わる。つまりは変わってすらもいない。これ、と決まったものなどないからだ。私たちは流れている。生まれて死ぬまで流れ続けている。死んでからも大きな流れに還るだけかもしれない。そんなことは誰も知らない。考えてもわからない。今この時が流れつづけ私もあなたも流れていることは確かだ。それだけでいい。五分前の私ももう分からない。どこか過去へ流されてしまった。今何がしたい。気持ちがいいことをしよう。

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