図像の解釈には多様性がある

読み終えた。

本書を読んだきっかけはセイレーンの記事を書くためだった。

この記事を書いた時は必要なところだけをつまみ食いする形で読んだだけだったが、他のところにも興味が出てきたので最初から最後まで通して読み直した。読み終えて改めて思う。図像の意味するところは一意に定めるのが難しい、と。

俺の記事でも結局なぜセイレーンが股を広げているのか、すっきりした説明をしていない。何冊かの本を読み、なるべく誠実に書こうとするとどうしてもこうなってしまう。

キリスト教の文脈からは、男性を誘惑する「淫婦のポーズ」として。土着の文化からは「再生」や「豊穣」、そして「破邪」の効果を期待して。装飾の観点ではシンメトリーというのも重要だ。

なぜこうもすっきりしないのか。それは各自がそれぞれの文化と意図を持ってポーズを活用・解釈するからである。肉欲を忌避するキリスト教の聖職者は、「悪しき象徴」としてセイレーンを聖堂の壁に彫らせた。しかし民衆が同じように解釈するとは限らない。肉欲を否定することよりも豊穣を求める文化であるならば、このセイレーンは肯定的に捉えられる。直接的には「悪しきもの」と捉えても、逆にそれで破邪を期待することもある。

さらに言えば、そもそもキリスト教自体が、本来とは異なる解釈で人魚を利用している。キリスト教では半人半獣は悪なので人魚もそのように使っているが、ギリシャ神話ではそんなことはない。むしろ神の姿として使われる。

このように図像を、それぞれの立場から好き勝手に解釈して使っていくのだから、それが何を意味するかを語るのはとても難しい。もし一つの意味に固定したいのであれば、「誰にとって」を明確にする必要がある。

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