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コミュニティとシステムを同じ論で語るには歴史を消費し過ぎている。

どうもこんばんは、おぐです。最近はコンヴィヴィアリティとオイラーの不等式を美しさに置き換えて色々考えてます。そのうち書くので。。。

さて、昨日は大阪のとあるアーティストの友人たちに会って久しぶりに会話しました。その時に考えていたことに触れると、いわゆる小さなコミュニティー内を形成してかつ回すことで経済を潤すことができる。尤もたるのはすぐにイメージが湧くと思いますがそう、オンラインサロンですね。

クローズドなコミュニティ内で執り行われる指揮と、オープンだけどドライな指揮を引く。この両面というのは、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの話ですがどちらかに極端に振れない経営やコミュニティーの在り方が近年求められていたりもするわけで。まぁこの辺りは

彼のnoteが分かりやすいかと。テンニースが著書を出しているのですが、僭越ながら僕も振れてないです。

ただ大きい資産やはたまた指揮者が循環的な分配を損なう限りにおいて潤うことはほとんどないでしょうね。それは歴史が証明してます。よいうよりもシステム論だけの話は結構聞こえはいいのだけど実際はそうもいかないのではないかと。

優れた偉人たちが執り為して変革や改革を行なってきてもなお変わらないのは、機会じゃないからです。人間だからですよね。そこを抜きにして、方法論やシステム論に走るのは怖いなと考えます。

歴史から学ばないことを学んだ人類の今後の発展を絶望的に俯瞰しつつも今日も手を動かすわけです。社会に奉仕するすべての方へ感謝を込めて。

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