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88 思考停止は日本の文化か?

思考が停止しているときなにを考えているのか?

 人は、思考停止に陥る。そして客観的に「おまえは思考停止している」と指摘される。
 それは、「前例がないから」とか「これまでこうやっていたから」「みんながやっているから」といった「言い訳」を述べるときに、気づかされる。
 行政や政治の世界においては、とてもよく起きることである。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」(ツービート)は、そうしたときに、よく引き合いに出される常套句である。
 不思議なことに、本当に思考を停止しているとき、たとえばアクセルとブレーキを踏み間違えていることに気づかないような瞬間には、あまり思考停止とは言われないが、もちろん、これも思考停止の一種だろう。
 思考停止とは、「なにも考えていない」のではなく、「ほかのことしか考えていない」と言える。
 ルーティーンのことをしている場合に(風呂に入って体を洗う順番だとか、歯磨きの手順とか)、しばしば「あれ、やったかな」とあとで思い出せなかったりする。こうした空白の時間も、思考停止に違いない。
 ただ、思考停止は、完全に「頭の中が真っ白」な時に限らないわけで、だとすると、なにかを考えてはいるのだ。
「これは、帳簿に記載する必要のないおカネです。自由に使っていいんですよ」と言われて、「何にも考えずに」受け取り、「何も考えずに」使っていたとすると、これもまた、思考停止であろう。
 その時、なにを考えていたかといえば、「ちょっと変だと思ったが、自分のようなものがそれを言ってもしょうがないよね」とか「せっかく貰ったのに、文句をつけるなんておかしいよな」とか「みんなやってるなら、いいんだろう」といったことをちゃんと考えているのである。
 ちゃんと考えているのに、なぜか、結果的に考えていないのと同じことになってしまうとすれば、これは恐ろしいことだろう。「頭が真っ白」よりずっと恐ろしいのである。

それは文化かもしれない

 なぜか、あとあとで大きな問題になりそうなことなのに気づくことなく、思考停止しちゃうのは、遺伝的に組み込まれた人間ならではのことと言うよりも(その可能性ももちろんあるけれど)、文化的な、いわば人の成長過程で身につける類の能力なのではないだろうか?
 世の中で、思考停止によって大きな問題になるのは、決まってそれなりの教育を受けて、だいたいにおいて世の中では上位の中でも上位の近辺にいる人たちであろう。
 もし知的な階級において下位に属している者が思考停止状態になったとしても、損害は軽微であるから、それほど問題にもならないし、「バカだな」と言われて終わることも多いに違いない。
 なぜ、知的階級上位のはずの者なのに、思考停止になってしまうのか。
 ひとつには、見た目は知的階級上位なのに、実質的にはろくに勉強をしてこなかった、いわばフェイクである場合だ。確かにその可能性はある。カネにものを言わせて、いかにもよさそうな学歴をでっち上げる、といったことは不可能ではないはずだ。
 また、以前は確かに知的階級上位であったのが、脳の損傷や病気によってその能力を著しく毀損している場合もあり得る。たとえば過度のストレスに長時間さらされる、過度の飲酒を続けるなど、なにかしら過度になることによって、本来あったはずの知力を失ってしまっている場合である。これもまた、ゼロではないはずだ。
 それに、もしかすると、知的階級上位となった分野があまりにも特殊でニッチだったのにも関わらず、その後、総合的な判断を求められるような仕事についてしまって、実は自分が勉強してきたことがほとんど役に立たなかった、といった場合もあるだろう。専門バカなどと呼ばれることもある。
 もっとも悪質なのは、「思考停止のふり」である。「あ、悪い、考えてなかった」「気づかなかった」と、「バカでした」みたいなフリをする。すべてを把握して、隅々まで理解し、いくらでも回避できたはずなのに、あえて思考停止のフリをすることで、ある集団の中で力を保とうとする行動も、いろいろな場で見られるのである。
「あの王様、裸だね」と気づいたとたんにすぐ口にするのもバカげているのだが、「まあ、裸っちゃ裸だけど、見ようによってはそうじゃないってこともあるかもね」的に自分自身を丸め込みつつ、周囲にも「あの程度は裸とは言えないよね、王冠もつけているしパンツは履いてるし靴もちゃんとしているから」などと説得に回る者だっているかもしれない。
 こうなると、もはや、思考停止は日本の文化である、と断言してもいいし、そこまでは言えないけど、確かに文化的側面はあるよな、とお茶を濁してもいいのである。

みんなで渡る気持ち

 赤信号をみんなで渡るとき、それは自己肯定感に加えて社会の一員としての一体感を感じ、むしろ愉快な喜びさえ感じるのではないだろうか?
 まして「だって、法律で禁じられてないもの」と誰かが言えるようなグレーゾーンとなったら、共犯者としてみんなでやってしまうことは、まったくやましくないと判断してしまう人だっていてもおかしくない。
「みんなが右へ行くときに、どうして逆らって左へ行けるのか」と言われるかもしれないが、それは個人が自分で判断して決めればいいことであって、なんとなくみんなで様子を見ながら「こっち、ですよね」的に付和雷同することがベストではない。
 それなのに、日本の社会ではしばしば「あまりにも右へ行った人が多いから、本来は左にも行って欲しかったんだけど」と、右に行った人の中から「おまえは左へ行け」と言われて渋々、左へ「行かされてしまう」現象が起こる。
 その上、「今回は悪かったなあ、左に行かせてしまって。ここは我慢してくれ。次は悪いようにしないから」的なことを言われ、実際にしばらくしてから「お、あいつ、いつの間にか右にいるぞ、どうしたんだ」となったりすることがある。
 一度、左に行かされていたことによって、むしろ出世する、なんてことが起こり得る。
 こうなったら、個人個人が自分の考えを持って好きな選択をするよりも、思考停止した方が有利になるのではないだろうか?
 ここまで書いてきて、実は私が思考停止しているのかもしれないと、気づいたものの、考えないことにした。
 
 
 
 

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