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187 書く、書かない、読む、読まない

重たい話をしたくない

 世の中で起きることは、どれも重い。重たすぎて抱えきれない。電源を失ったコンテナ船が橋桁にぶつかって橋が崩落し、そこにいた人たちが亡くなってしまう。体にいいからと飲み続けたもののせいで命を落とす。みんなと楽しくやっていたはずの酒宴がなぜか告発の材料となって裁判で戦わなければならなくなる。なんだか重たい。
 だから軽い話を書きたい。いや、そもそも書く必要があるのか。
 世の中では、書く人もいれば、書かない人もいる。読む人もいれば読まない人もいる。書くけれど読まない人、書かないけれど読む人。書かないし読まない人。
 私自身、そのどれかに属している。
 書きたくないことは書かない。書きたいことだけを書くのかと問われると、必ずしもそうでもない。そもそも「これを書きたい!」と思う瞬間に私は出会ったことがない。「そんなはずはない、絶対に『書きたい』と思ったところから書いているはずだ」と言われるかもしれないが、実はそうではない。正直に言う。書きたいことはあることはある。だけど、それを書いているのかと問われると、そんなことはないのだ。
 これを説明するのは難しい。確かに私は常に「書きたい」と考えていることが頭の中に居座っている。だけど、それは書けないのである。書かないのではなく、書けない。この文章のように、そもそも冒頭の書き出しから思い浮かばない。奇妙なことに、書きたいことが書けないので、書けることを書いているのである。
「そんなバカな」と言われるだろうけれど、そうなのだからしょうがない。それはたとえば、生まれて間もない頃の記憶と思われるものの中に、ある街にあるお店の記憶があったとして、その街や店に行きたいとずっと思っているのに辿り着けないようなものである。辿り着けないのだけど、その周辺と思われる、行けるところにとりあえず行ってみる。
 私が書いていることは、そういうことなのだ。そして書いているうちに、いつしか「書きたいこと」が書けているかもしれない。そんな願望はある。「ああ、自分はこれが書きたかったんだな」と気づくかもしれない。「これがあの記憶に残っている街だ」とか「あの店だ」と気づくかもしれない。
 同時に、それがもし、いまの自分になんの感動も感慨も感傷も起こさなかったとしたらどうしよう、と恐れてもいる。
 本当に書きたいことを書いてしまったら、私はどうなるのだろう。それが怖くて書けないのかもしれない。

読みたいように読む

 書くこと、あるいは書かないことに比べれば、読む、読まないは、さらに気楽な話だ。仕事で読まなければならないものは存在する。それはしょうがなく読むしかない。それ以外は、誰も私に「読まないと殺す」などとは言ってこないのだから、基本、読まなくていい。
 人は仕事や義務や強制で読まされる以外、読まなくてもいいのである。だから、こちらも「読みたくて読んでいるのだろう」と周囲から推測される。しかし、これまた、必ずしもそうだとは言い切れない。本当に読みたいものを読んでいるのだろうか? 違う気がする。
「ほしいものリスト」のような機能があって、そこに読みたい本は常に存在しているけれど、それをちゃんと片っ端から読んでいるなんてことはない。「どうして?」と言われるかもしれないが、たいがい、もっと衝動的な出会いで読むものを選択している。たまたま、としか言いようがない。ほとんどの本は衝動的に読んでいるし、しかも遅読主義なので(そんな主義はない)、途中で放り出す。再び読み始めるかもしれないし、二度と読まないかもしれない。読むこととは、おそらくそういうものだ。少なくとも私にとっては。
 さらに読むときにも、読み手としての自由がある。どう読もうと読む側の勝手なのである。私はこうして衝動的に手にした本を読みながら、それをどう読もうと自由であるので、著者の思惑や評論家や研究者の考える読み方に囚われることなく、好きなように読んでしまう。
 ちょっと前にある著者に「こいつはなにもわかっていない。だいたい登場人物を混同している」と指摘されたことがあった。私にとって、その人物の混同は重要なことだったのだ。それを説明することができないので申し訳ないのだが、誤読、曲解は私なりの読み方なのである。その作品が著者の書き方の問題で人物を混同しやすいのだと、私は指摘するつもりはない。いや、たぶん、混同が生じるはずはないのである。でも、混同したかった。混ぜこぜにして読みたかったのだ。
 ばらちらしを口に入れたとき「これはイカ? これはタコ?」などと真剣に考えながら食べたりはしないのである。なんとなく、そういったものが口に入っていて「美味しいなあ」と思いながら食べるのだ。
 悪文を書く人がいるように、悪読みの読者がいてもいい(いや、いない方が世の中にとってはいいことだろう)。なにを読んでも、読みながら自分の読みたいもののことを考えているから、そういう読み方になるのかもしれない。ただ、こういう読み方をしていても、8割ぐらいは、他の人が読んだ感想と同じだったりするので、そこはそれでいいじゃないか、と思ったりもしている。

描きかけ

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