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163 書きたいことがあるけど

やっぱり自分の範囲で

 ここに書きたいなあと思ったことがいろいろある。
「朝から大谷の話ばっかりだ」とか「まだシーズン始まってないのに」とか「自分がその世代の代表みたいな顔をする人は困ったものだ」とか「何十年前だって職場で頭ポンポンするやつなんていない」とか「日経平均が4万円を超えたからなんだってんだ」とか「株価上昇と生活の実感は乖離していてフツーだろ」とか「犬も猫もかわいい」とか「ついつい甘いものを欲しくなるなあ」とか「大河ドラマは当初は平安時代の空気みたいな音がしていたけど、この頃は音楽で盛り上げることが増えたかな」とか「大河ドラマ、9話でようやく吉高は大人の表情を出してきたね」とか「『お別れホスピタル』は続編あるのかな」とか「『舟を編む』を見ていて、確かに昔、辞書のニオイを嗅ぐのが好きだったなあ」とか。あと、政治、政治家、国会について120個ぐらい言いたいことがある。
 だけど、こうしたことをいまは書きたくない。
 自分の範囲みたいなものがあって、あるときは「その範囲内で処理したい」と思い、あるときは「その範囲を飛び越えてみたい」と思う。いまは、飛び越える気持ちを持ち合わせていない。
 それでも、恐らく、こうしたnoteを書くときには、誰もがある程度は自分の範囲を飛び越える必要がある気がしている。思い切る、振りかぶる、ムリ目の球にも手を出してみる。そういうムチャがおもしろい。

エネルギーが乏しいとき

 世の中にはエネルギーの流れみたいなものがあるのだろう。いや、怪しいな、こういうことを書くと、妙な教祖っぽくなるけど。それでも実際にエネルギーみたいなものは、間接的にでも伝わってくる。だってみんな「力もらいました!」とか言うし。「元気もらいました!」とか言うもんね。もらえるものはもらっておく方がいい。
 錯覚だとしても、そんな気になることもあるから、それが「世の中」のあちこちにふわふわ漂っているんじゃないだろうか。
 それに乗っかるのもいいし、いまは乗る勇気がなければ受け流すのもいい。それは、テレビをつけてもいいし、見なくてもいい、と言っているようなものだ。
 エネルギーが乏しいと感じているときは、いずれにせよ、注意して行動した方がいい。いまは、自分のターンではない。
 NFLでは、かつて「モメンタム」という言葉が普通に使われていた。チームの勢いというよりも、ゲーム全体の流れのようなもので、いまゲームの流れがどっちに向かっているかといった「ふわっとした」感覚で使われていた。だが、何年前か忘れたけれど米国で「モメンタムはない」という研究結果が発表されてから、あまり使う人はいなくなった。
 賭博でも、そうした流れがあると言う人はいる。「いまおれに流れが来てるんや」と借金してでも賭けようとするケースがありそうだ。だけど、実はそんなものはない。あるとしても、「流れ」を感じているなら、その流れがなくなったときも感じなければおかしい。流れを感じないときは賭けない、というのならわかるけど、そういうことが好きな人は流れがあろうがなかろうが賭けるのである。
 きょうも、こうしてnoteを書いているのは、「いま自分に流れは来ていない」と書いておくためなのだろうか?
 そういえばこのところ、時計の「11:11」を連日見ていたのに、今日は見なかったものね。完全に流れは自分から離れている。
 昔、ルーン占いをしていた頃、もっとも好きなサインは「ブレイクスルー(サガズ)」だったが、次に好きなサインは「休止(イサ)」だった。このサインが出たときは「じっとしておく」「注意深く待つ」「執着しているものを手放す」といった意味があるとされていた。
 食事のために行列に並ぶのは好きではないけれど、自分としては「待つ」ことはそれほど嫌いではない。だから、しばらくはじっと待とうと思う。

夢の光景(まだ途中)



 
 
 
 


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