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120 疑いだしたらきりがない

たとえば推理小説の真犯人は本当に真犯人か?

 この頃、実はミステリーをほとんど読んでいない。というよりも、たいがいの小説はどんなジャンルでも一種の「謎解き」を含んでいるので、なにを読んでもミステリーといえばミステリーだ。その中でも、ミステリーは、ちゃんと間違いない真犯人に到達しなければならない。
 それなのに、私はミステリーを読んで「あなたが犯人ですね」なんて時代がかった解決ではないにせよ、とにかく謎が解かれたときに、「本当かな」と疑問を持つ人間である。
 いや、もう証拠はすべて出揃って、その人以外にこの地球上ではその罪を犯せないことが明白になったとしても、「本当かな」と思うのである。
 もちろん、本は閉じる。めでたしめでたし。あるいは余韻の残る終わり。あるいはバッドエンド。それでも構わないのだけれど、それはあくまで「いまこの読み終えた本の中で語られた範囲の話」である。だからといって、読む側は、その範囲の中だけに囚われる必要はない。どう読もうと自由なのだ。読み終えて「本当かな」と思ってもいいのである。
『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』(島田荘司著)を、読んでいて、「懐かしい」と感じている。ミステリーである。謎解きである。しかし、私は謎解きに夢中にはなれない。ありがたいのは著者は、2つの視点から描いて、一種のパロディにもなっている点だろう。謎解きはホームズにお任せし、こちらは彼らのやり取りの楽しさを享受することに専念したい。

「派閥はなくならない」と言う人たち

 私は、最近の自民党の派閥、そして派閥主催のパーティーを巡って明らかになった献金と闇に消えていく大金の話を注目しているけれど、たびたび「派閥はなくならない」「人間はそういうものだ」といった意見ともいえない意見を堂々と言う人たちが、不思議でならない。
 確かに政治家も人間だから、「人間であるからこうなんだ」と言われてしまったらそうなのだろう。しかし、政治家である。政治家はほかのすべての人たちが「人間だからしょうがない」と思えるようなことさえも、「やらない」と言わなければならない立場にあるはずだ。
 つまり、政治家の人間的な側面に同情する必要なんてこれっぽっちもないのである。だって、政治家なんだもん。
 派閥と世襲。これはいま政治が抱えている大きな問題を象徴している。政治は人間のやるものだから、温かい血の通った政策は必要だ。同時に、冷徹な判断も必要になる。だったら、「政治家だって人間だ」は自ら言ってはいけないし、そういう人に対して「それでも私たちは政治家なので」と異議を唱えるぐらいでなければいけない(あくまで個人の感想だ)。
 こうした世の中の問題についても、私は「本当か?」と疑ってかかるので、「疑いだしたらきりがない」のである。
 派閥はなくならない、疑いだしたらきりがない、といった言葉は、意見ではない。「桜が咲いた」とか「雨がやんだ」と言っているのと同じで、訳知り顔で「そんなもの」的に言うことは、意見でもなんでもない。
 

パーティーのイメージ

達観してもいいけど、もう少し粘ってもいい

 「人間はこんなもの」「世の中はこんなもの」「疑ったらきりがない」「派閥はなくならない」といった具合に、たまには、達観してもいい。その方が心の平穏を得られるのなら。
 だけど、それが達観だと、どうしてわかるのだろう。
 達観って、こんなものじゃない、と思ったことはないのだろうか?
 それは「ほら見たことか」と言いたいだけなのではないか?
 やっぱり人間って、生きている間しか活動できないので、その限られた時間の中でどこまでやれるかを自ら考えて進むことだと思いたいけれど、達観はたぶん、その邪魔にしかならない。
 たまにはいいよ、「おれ、ぜんぶわかっちゃった」と思い込んでもいい。だけど、そこには「本当に?」という小さな疑問もセットで置いておきたい。
 生きるって、粘ることだと思う。
「ここまで来たら終わり」といった明確なゴールが必ずしもあるわけじゃないから。たまにはゴールがはっきりして、達成感を得ることも必要だけど、ゴールのあとにはなにがあるか。「本当にこれで終わり?」と疑問が浮かばないといけないんじゃないか。
 そうやって、一歩でも半歩でも進んでみる。
 そういう生き方の方が、達観するよりもずっと楽しいだろうと、私は思うんだけどね。


 

 

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