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136 人の原稿と自分の原稿

人の原稿を読むということ

 編集の「作業」として、人の書いた原稿を読むことは基本となる。自分の書いた原稿ではない。よく知っている人、あるいはほとんど知らない人、まったく知らない人の書いた原稿をひたすら読む。
 読むことからはじまる仕事、といってもいい。こう言うと「企画が先でしょ」とか「執筆依頼でしょ」とか「著者を探すことが先じゃないか」と言われるだろう。
 確かに、仕事としてはとても幅広いのが編集で、そのどこを見るかによって編集に対するイメージはずいぶんと変わってしまうに違いない。
 ドラマなら、そこに登場する編集者は、とにかく誰かに会う。人との出会いはどんな仕事でも、あるいは人生においても、とても重要なので、ドラマとしてそこを重視するのは当然だ。
 見つけて、その人にどういう原稿を書いてもらうか企画し、依頼する。そしていただいた原稿に目を通す。
 私が言う「作業」は、もちろん、こうして得た原稿を読みこなすことも含まれているけれど、実は、人との出会い前にも、「読む」作業がある。

本とナマの原稿は読み方が違う

 なぜなら、自分の仕事に直結した原稿だけが、読んでおくべき原稿ではないからだ。本を読むことと、誰かが書いた原稿を読むことは、大きく違う。
 原稿には書き手の呼吸のような、波長のようなものがこめられている。だから最終形の本を読むときよりも生々しく、緊張感も高い。なにが飛び出してくるかわからない。本になっているなら、すでに数人あるいは数十人が読んでいるわけだから、そういう意味での緊張感はいらない。
 だが、原稿には、著者のさまざまな気持ちがダイレクトに入っているので、そもそも読み方も本とは違う。
 生まれてはじめて他人の原稿を読んだときの感慨は忘れられない。まだ誰も読んでいないナマの原稿だ。それをどうするかは、編集と著者にかかっている。
 企画したり、人と出会ったり、依頼する以前に、どんな原稿を読んでいたかは、そのあとの仕事に影響する。修業とまでは言わないけど、ナマの原稿を読むことからしか見えてこないものがあるので、編集はそこがもっともおもしろく、そして緊張し、さらに経験値を高めることになる。
 その一方で、「読む」をけっこう軽く考えている人も見受けられる。
「読むだけなら、私にでも出来ます」と言う。その「読むだけ」ではダメなのだ。そこに気づいていれば問題ないけれど。
 和菓子の味を知らない人は、和菓子職人になれないかと言えば、実は伝統的に製造方法に決まりがあるから、自分の食べない菓子を作ることだって可能だ。もちろんそれでは教わった味以上のものは出せないかもしれないけれど、少なくともちゃんと学べば、それなりにいい菓子が出来たとしても不思議ではない。
 ところが、本づくりはけっこう簡単なようで、毎回、かなり違う。著者の数だけやり方が変わる。味も風味も違う。前の方法ではうまく行かないことも多い。だから、ナマの原稿を注意深く読めるようになっていないと、最終的な本になる段階で、いろいろと面倒なことが起こりがちになる。
 完成形を見通せないことが多い世界だとも言えるだろう。
 それだけに、人の原稿を読むのは大変だから、仕事として対価を得られなければ引き受けられない。

原稿を読んでもらうこと

「いろいろな原稿を読めて楽しいだろう?」と言われる。楽しい。それも事実だけど、それを完成形にまとめ上げるのは別問題だ。
 どこを押して、どこを引けば本になるか。それは毎回、突きつけられる課題だ。責任はすべて著者にある、と言ってしまえばそれまでで、なにも編集者が執筆するわけではないので、すべて著者に被せてもいいけれど、そうなると、自分はなにをしたのか、が問題になるだろう。
 結局、私の場合は、編集者として人の原稿を読むことにあるときに限界を感じてしまい、長くライターをやっていた。原稿を書く側に回ったのだ。ある意味、その方が楽なのである。
 原稿を書く側からすれば、最初に読んでもらう編集者の言葉は、かなり緊張するし心配にもなる。いい反応、悪い反応もさることながら、その結果、編集者から突きつけられる注文が怖い。
「いいですね。でも、ここは削って、もう少しこういうニュアンスの部分を膨らませてくれませんか」といった注文を得たりもする。
 書く側は、そのたびに、「なんで自分でそれを思いつかなかったのか」と悔しいのだけれど、その部分を無責任に編集者に任せてしまえるから楽だとも言えるのだ。
 むしろ「はい、OKです」とそのまま原稿が通ってしまう方が、怖い。
 かなり前、編集者不在の現場があって、いざ原稿が上がってくると、その原稿がいいのかどうか、誰にも判断できないことに気づいた、なんてこともあった。私は最初、書き手で入ったのだが、しょうがないから途中で編集側となり、自分で執筆することは諦めた。編集と執筆は、同じことの裏表のような関係があるので、なかなか二刀流は難しいなあ、と私は思っている。
 一方、優れた編集者が編集をやめて書き手になることは過去にも例がいくつもあって、きっと、書く側になったら楽になれたんだろうなと勝手に推測したりもした。 

赤い服を着せられてクッションでくつろぐ

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