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214 AIで創られた思い出

あらゆる思い出が加工される

 美しい思い出が残っている人は幸せな人生と言えるだろう。
 その美しさは、人によってずいぶん違う。「あの頃、輝いていた」と思えるような過去。あるいは「一世一代の大舞台」とか。それとも大切な人たちに囲まれている瞬間。
 しかし、いまの時代以後の私たちの思い出は、すべてAIによって補正されていることになる可能性が大きい。
「こいつ、嫌なヤツだから消そう」「表情がちょっと変だから直そう」ぐらいからはじまって、「もっと可愛く」とか「もっと素敵に」といった要求によって、私たちは思い出を加工することになる。
 それどころか、「いまのところ、ぜんぜんいい思い出がないので」とAIに創り出してもらうことも可能だ。
「子どもの頃、こんな広い部屋で大勢の友達を呼んでパーティーしたんだよ」と写真を見せられても、それが事実かどうか、誰にわかるのか。
 学歴詐称どころではない。自分の過去をすべて捏造してしまう。
 そこまではいかないにせよ、都合の良いことを「美しい」と錯覚して、つぎつぎと自分にはなかった過去を生み出していく。
 そのことを、誰が止められるのだろう。
 結婚式の写真でさえ、「ハワイの教会で」と言いながら、実は近所のスタジオで撮影しているかもしれないし。いや、そもそもその相手とは結婚式を挙げていない可能性だってある。その相手は存在していないかもしれない。
 フェイクニュースが問題になっているけれど、どちらかといえば大勢の人によって検証されるニュースはまだいい。誰も検証できない個人の記録はどうだろう? どれだけフェイクでも、わからないではないか?
「そんなの自己満足じゃないか」と言われるかもれいない。
 今現在でも、大切な友人とのプリクラを大事にしている人は多い。プリクラに残る自分たちは実像とは限らない。さまざまなデコレーションをしているのではないだろうか。
「これ、誰?」と数年で、その中の誰かの顔がまったくわからなくなってしまっている可能性だってあるだろう。
「これ、私だよ、私!」「ウソ」
 誰も信じてくれないかもしれない。

AIと関わらずに生きることは不可能か?

 いまの世代でも、プリクラと無縁に生きている人だって大勢いるだろう。それと同じように、AIと無縁で生きることは可能だろうか?
 恐らく不可能だ。
 AIは、人類がこれまで生み出してきたテクノロジーの中で、もっとも浸透が速く深いに違いない。
 たぶん、母の胎内にいるとき、すでにAIに関わってしまう。医療分野にAIはしっかりと根づくに違いない。それは医師個人の判断だけに頼らず、よりよい診断に結びつくときっと信じられるに違いないからだ。
 さまざまな検査機器にもAI技術が入り込み、検査結果にもAIの判断が反映されることだろう。
 最初に口にする食べ物は、AIによってメニューが選択されて推奨される可能性もある。なぜなら、いまの時代に多くの母親は子どもに特殊なアレルギー体質がないことを祈ってはいるものの、現実にはどの物質に過剰反応するかは予め判定しにくい。どういうものを口にすれば、避けられるだろう。あるいはアレルギー反応が出てしまっているとすれば、なにを食べさせればいいだろう……。
 こうした数々の疑問に答えてくれるのがAIである。
「AIなんかに頼るな!」と叫んだところで、「じゃ、この町にいるあの医者の言葉を信じろと言うのか!」と反論されることだろう。
 もしもAIをプラスすることで、信頼度が格段に向上するのだとすれば、あらゆる分野でAIを活用することは避けられない。その結果、AIなしで人間力だけの評価は、事実上、いまよりもかなり目減りしていくだろう。
 そこまで頼っていくとき、恐らく深い信頼と猛烈な嫌悪の間で、世の中は揺れることだろう。嫌悪というものは、あらゆる事象を対象にしたいかにも人間的な反応だから。
 人間は、ただ嫌悪のみにすがって「自分らしく」生きるのだろうか?
「本当の思い出なんかより、AIで加工された思い出の方が素敵だ」と考えたとしても、不思議ではない。それを嫌悪することしか、人間にはできないかもしれない。

かなり描いた。


 

 

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