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192 共感の誤謬

共感って本当に存在する?

 VRだけではなく、そもそも人間って知性を磨く過程で仮想現実を生み出してきたんじゃないだろうか。今朝、このnoteを開いて浮かんだのは「共感の誤謬」という言葉で、もし私に必要な能力がありさえすれば、新書として出版したいぐらいのいい感じのタイトルだと思った。
 いい思いつきは、たいがいすでに誰かに思いつかれていることが多いので、ネットで検索してみると、AIのやつがこんなことを言う。


 「共感の誤謬」は、感情的な共感を理性的な判断と混同する誤りを指します。具体的には、感情的な共感があるからといって、それが正しい判断や論理的な根拠を持つものであるとは限らないということです。感情的な共感は大切ですが、論理的な分析や客観的な視点も併せて考慮することが重要ですね。
 

GPT-4

 どうやら「共感の誤謬」とは、普通に使われている語句で書籍のタイトルにはなりにくいかもしれないと気づかされる。
 そもそも、最近、共感について考えるようになったのは、X(旧Twitter)のおかげだ。為末大のつぶやきを眺めていたからである。ところが、いま該当するつぶやきを探しても見つからないで、違うかもしれない。違っていたらすみません。
 その中に、「過剰な共感」を避ける話があったはずで、とくに勝負事になったとき、相手に対する共感はときに自分の力を発揮する妨げになる可能性があるような話をしていた気がする(違っていたらすみませんです)。
 それは昨年のWBCですっかり擦り倒された「憧れるのをやめましょう」(大谷翔平)に通じる話なのかな、と思った。「共感するのをやめましょう」と言ったら、バッシングされそうだ。少なくとも共感はされないだろう。
 人間が言葉を巧みに使うようになり、自分の頭の中身をアウトプットする手段に長けて、いまや映画やゲームでは、そうした「ありえないけどスゴイ世界」が当たり前に社会に実装されている。最初は文字やオーラルの言葉だったろう。哲学者たちはやたら語り合ったみたいで、それを後年、弟子たちが文字情報へ変換したことで何千年も前の人たちの考えを、いまでも学ぶことができている。結果、言葉として残らなかった考えは、すべて忘れ去られているので、たとえば、ドラマ「光る君へ」の時代の農民はなにを考えていたのか、私たちにはよくわからない。この時代に文字で残せたのは上流社会の人たちだけだから。もっとも、万葉集の時代から「詠み人知らず」の短歌はたくさんあり、有名な防人の歌などもあるので、歌や昔話にその片鱗は残されていると考えることもできるけれど、上流階級の残した書に比べればあまりにも薄い。
 これは日本に限らず世界中がそうだ。あるいは、いまも、言葉や文字の記録に関わっていない人たちは、存在していないかのように扱われがちである。
 こうしたさまざまな気持ちを、「共感」を通して、文字や映像で残せる人たちに託すことができれば、少しは残っていくこのになるだろうし、いまも世界中でそうした報道、取材、ドキュメンタリー制作に生涯を捧げている人たちはいる。
 つまり共感できる能力を持つことは、今後の人類にとっても重要なことなので、共感力を持つことを過剰に推奨しているのかもしれない。
 ただ、共感も一種の幻想とすれば、幻想を支持する人の数、つまり多数決に左右されてしまう。たとえば、いま私がプーチン大統領の考えに共感してしまうとすると、なにが起こるだろう? 「なにを考えているかわからないよね」と言っておけばいいのに、「確かに一部、共感できるところがあるんですよ」などと言えば、どうなるだろう? いまのところ、私の感情部分が激しく抵抗するのでプーチン大統領に共感することは不可能であるけれど。

同調圧力に勝てるか?

 政治問題や国際紛争、差別に対して、共感力を高めることで対抗できると考えてもいいけれど、もしかするとそれは幻想かもしれない。
 一方で、同調圧力の問題もある。

 最近でこそ「空気読め!」は否定的に捉えられるセリフになった。それでもなお、いまもカタチを換えて空気を読むことを是とする世界は存在する。結果的に空気が読めた方が得をするのなら、どうしたって、そっちに多数が向かってしまうのは止められない。誰がなんと言おうと、エスカレーターで片側に寄る行動は廃れない。
 この「空気読め!」を否定しながら「共感せよ」と言えるだろうか?
 知的に、客観的に相手の状況を理解することと、共感との間には広くて深い川が流れているような気もする。それなのに、その川を飛び越えて来い、と言う人たちも存在するのである。
 ネガティブな相談事を持ちかけられたときの常套句のような「あなたの気持ちもわかるけど」という安易な言葉は、もちろん共感ではない。いや共感している場合もあるが、共感を装う場合だって同じようなセリフになる。だいたい、気持ちなんてわかるのか?
 なにもわからないうちに同調せざるを得ない状況になるのは、恐怖でしかない。できるだけそういうシーンに自分が置かれないように注意深く生きたい。同時に、自分の気持ちはできればわかって欲しいときもある。そのとき、どうすれば理解してくれる人を得られるのか、その方法はなかなかズバリいい方法は見つけにくい。
 その結果として、共感に頼ることになるのかもしれない。
 だけど、その共感にもたれかかっていいものだろうか。それはなにか得体の知れない同調に移行していないだろうか。もちろん、こういうことを書いたとしても、ほぼ共感は得られないとは思うけれども。

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