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72 小説「ライフタイム」 8 彼女

新人歓迎会

 責了の原稿がつぎつぎ割り付けへ回っていき、「雁首探して」と言われて、過去に作った丸く作られた人物写真の鉛版が入った木箱から、よく登場する経営者の顔を見つけては割り付けへ持っていく。
 レイアウト用紙にすべての面の記事や写真、広告の流し込み方が指示され、印刷所の職人たちはそれを見ながら活字を組み込んでいく。その校正紙が出たら、全員でとにかく片っ端からちゃんと入っているか、写真や広告に間違いはないかを確認して、「責了」にしていく。あとは印刷所に任せるのである。
 最終的にはこうしてすべての面の鉛版ができたら、面つけをして輪転機にかけることになる。
 ぼくたちの出来ることはなくなり、印刷所から借りている作業場はほかの業界紙の人たちなどが使うので、きれいにして外に出る。
「腹減った」などと声があがる。
「まだ新人歓迎会をやっていなかったな」と梅宮。さすがに元編集長の副編なので、ベテラン記者たちはいまも彼のかけ声を尊重する。
「まこさん、いいよね」と梅宮が言えば「ええよ、ええよ!」とまこさんはわざとらしい関西弁で答える。関西出身の記者からは、関東の人がマネするいい加減な関西弁がとても「気色悪い」らしいが、まこさんはそれを知っていてわざとやる。「ごちゃごちゃいわんと、ついてこんかい!」
 まこさんが荒れると困るので、みんなはぞろぞろついていく。行き先はいつもの居酒屋である。この近くの会社に勤めている人たちはすでに一次会を終えている時間帯なので、たいがい、すんなり入れてしまう。
 この日も予約していなくても、十二人ほどが座敷に通される。
 そして、ビールや酒が運ばれるのだが、つまみは売り切れているものも多い。「あるもの全部」と梅宮が声をかけると、店もいつものことなので、適当にみつくろって出してくれる。

血染めの指輪

 このときの新人は三人だった。度の強いメガネをかけた長身の男、声の大きい丸っこい体型の男、そして彼女だった。松本奈美江。顎が尖って、額をすっかり出して、切り立てのカマボコを連想させる。仕事中はメガネをかけていることの多い彼女は、大学を卒業したばかりというのもあるが、社内のあらゆる人にあらゆる質問をして回っていた。ぼくのところにも来て、雑誌づくりを根掘り葉掘り聞いていく。
「あれは、辞めるよ」とカワムラが言っていた。総務経理はカドクラさんが辞めてしまったあと、社長の知り合いと言う四十代の女性が入ってきて、カワムラは腐っていた。ぼくはその女性は正直、カドクラさんより優秀でなんでも嫌がらずに対応してくれるいい人だと思うのだが、カワイイ子が来ることを期待していたカワムラにとっては残念な結果だった。
 それでいて、新人で入ってきた奈美江に興味津々で、ぼくにも「編集はいいよなあ」とこぼす。
 毎年、ひとりか二人、女性の新入社員が編集には入る。それが一年も持たずに辞めて行く。たまに残るらしいが、ぼくが入ってからは、女性記者はひとりしか生き残っていなかった。
「まこさんがいるからムリですよ」と生き残りであるエンドウさん。エンドウさんはまこさんと折り合いが悪い。まこさんは大きな声で「おんな出して仕事してんじゃねえよ」と度鳴っている。「そんなことしてません!」とエンドウさんも負けない。とはいえ、エンドウさんはかなりの厚化粧で、しかもメルヘンっぽい服装が好きで、自分が女であることを謳歌しているように見える。ウワサでは記者クラブでもモテているらしいのだ。
 まこさんは、こうなると「鬼」である。「オタクにはあの鬼がいるでしょ」と他紙の人に言われたことが、ぼくでさえあった。まこさんは他社の記者にも遠慮なく怒鳴りつけるから、仕方が無いことだろう。
「出た、血染めの指輪!」と、ぼくから離れた席で大きな声が出る。ベテラン記者に囲まれたまこさん。その目の前には空になった徳利が並んでいる。例によって「この店の徳利を全部使ってやる」作戦がはじまっていて、返さないのだ。「もう徳利がないので」と店に言わせたいだけである。
 これを最初にはじめたのは編集長時代の梅宮だが、まこさんはそれも引き継いでいる。そして、高血圧でもあって酒量を減らしている梅宮が「まこさん、飲み過ぎですよ」などと注意しようものなら、まこさんの左拳が梅宮の分厚い胸筋を叩くのだ。
 独身のまこさんであるが、以前からずっと左手にゴツイ指輪がある。薬指ではなく中指にしている。古めかしい金の指輪で、家族に伝わっているものだと言われている。彼女は、誰かを殴るとき、その指輪をあたかもメリケンサックのように使う。
 もっともカワムラの情報によれば、数年前の忘年会で、酔っ払って暴れた田所けいちゃんを止めようとして、間違って拳がぶつかり、唇が裂けて大出血したらしい。ケンカや部下を叱りつけるために殴っているわけではない。
 それなのに、まこさんはむしろそれをおもしろがって「なんだ、やるか。この血染めの指輪が、今日も血を欲しがってるぜ」と、拳を自分の平手でぶつける仕草をしたりするから、ウワサがウワサを呼んでしまうのだ。
 これが他紙などにも伝わって、まこさんの血染めの指輪伝説は、記者クラブの酒の肴になっているのである。

帰る人

 宴会はすぐに適当になるのだが、梅宮とまこさんの大きな違いがひとつある。それは梅宮は寂しがり屋なので最後まで全員いることを望んでいるのに対して、まこさんは「いつでも帰っていいぞ」と言うことだろう。彼女が編集長になってから、宴会は自由解散になった。
 ぼくも入社以来、その制度によって最後までいたことはない。
「帰る人!」とまこさんが叫ぶ。「ここまでだったら二千円置いていけ!」と。
 ぼくはすかさず「帰る人」となり、二千円を置いて店の外に出る。
 冷たい空気が気持ちいい。
 終電で帰るのは嫌なので、いまからならグリーン車でのんびり帰ることができそうだ。日比谷線で日比谷へ行き、つい最近、国鉄が民営化されたのでJRと呼んでいるが、有楽町から新橋へ行き、東海道線に乗り換えて横浜へ帰ろうと思っていた。
「帰るんですか?」
 歩き始めて、すぐ後ろについてきた奈美江に気づいた。
「あれ、帰っちゃうの?」
「はい。最後まで付き合ってもろくなことがないですから。それより、どこかで少し飲みませんか?」
「いいけど」
 これはカワムラにしゃべったら悔しがるだろうか。いや、むしろ社内の誰にも言えないことになるのだろうか。
 夜の彼女は、妙に美しく見えた。
 (つづく)
──この記事はフィクションです──
 
  
 

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